ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

現実は何処かで彎曲し別世界に通じている

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何かの拍子に、いつも不思議だなと思うことがある。

それは、過去に知り合った人たちが今この瞬間、どこかで生きていることである。目の前にいないのに、どこかで生きているという事実。そのことがとても不思議に思える。

しかし、この不思議さは、簡単には出会えない人・二度と会えないだろう人だからこそ、生まれてくる不思議さだと思う。だから、普段は会えなくても簡単に電話で話ができるとか、一年に一度会える人であれば、この不思議さは生まれてこない。

 

もしも、決して出会うことのない人たちが出会えば、それは運命的な千載一遇の出会いと言える。

私が惹かれる物語は、そうした運命的な出会いを含んでいる。

 

君の名は。』で主人公の瀧と三葉は、名前は知らないが相手を知っているという不思議な感覚から、運命的な出会いをする。

村上春樹『1Q84』では、現実と少しだけずれた世界が描かれる。そこで青豆や天吾が出会っている人たちは本当は誰なのか。

セルバンテスドン・キホーテ』の第二部で、ドン・キホーテは第一部を読んだという人物と出会う。小説の主人公が現実の人物と遭遇する。

こうした要素を含んだ物語はたくさんある。

ラテンアメリカ文学には、現実と虚構・空想が入り混じった混沌とした世界を描いているものが多く、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』はその際たるものである。

世界の文学〈31〉ドノソ/夜のみだらな鳥 (1976年)

世界の文学〈31〉ドノソ/夜のみだらな鳥 (1976年)

 

 現実はどこかで少しずつ湾曲して、別世界に通じている。

 

量子論において、原子の世界では、現実世界とは全く異なった世界が広がっていて、その原子の世界を量子論を元に目に見える現実世界に敷衍すれば、現実が違った形で記述できるだろう。

 

音楽や映像は、言葉以前の世界を指し示す。言葉に置き換えてしまったら、その意味は一義的に定まってしまう。言語以前の動物的な感覚の世界。

反対に、言語の世界を言語化以前の世界に置き換えることもある。

バレー音楽やダンス・振付などはその一つだろう。

 

昨年の暮れ、平井堅「ノンフィクション」を欅坂・平手友梨奈が振付するコラボレーションがあった。

「ノンフィクション」の歌詞を解釈して忠実に再現しているパフォーマンスであったが、音楽→言葉が一義的なニュアンスになるのに対して、言葉→ダンスは歌詞の創造的な解釈が可能であると思えた。おそらく、言葉が言葉以前に戻ったお陰で、それを目撃する私たちに複数の解釈が可能になるからだと思う。


ノンフィクション 欅坂46 平手友梨奈

 

幼い子供や小学生・中学生は、夢見がちだと言われたりする。大人になると現実を知り、夢は見なくなると言われる。

これは、現実に対する選択肢が消えていき、定まった生き方を強いられるからだろうが、この強いられ方自体が一つの神話であり、開かれた選択肢は他にあると思う。

 

描いた夢は叶わないことの方が多い 優れた人を羨んでは自分が嫌になる

浅い眠りに押し潰されそうな夜もある 優しい隣人が陰で牙を剥いていたり

 

惰性で見てたテレビ消すみたいに 生きることを時々やめたくなる

人生は苦痛ですか? 成功が全てですか?

 

僕はあなたに あなたに ただ会いたいだけ

みすぼらしくていいから 欲まみれでもいいから

僕はあなたの あなたの 本当を知りたいから

 

響き消える笑い声 一人歩く曇り道

僕はあなたに あなたに ただ会いたいだけ

 

平井堅「ノンフィクション」

 

決して出会えない人への通路、二度と出会えない人への通路。

物語はそれを可能にする。

大人は、固定化された回路しか持たない人の代名詞。別世界への回路にいつでも接続できる柔軟さを持てば、世界は違った風景を見せてくれる。