先日、大阪のTSUTAYAレンタルコーナーで、ふと目にした。
壁をバックに写っている女性が印象的だったから、題名を控えておいた。
物語は、普通にある話だ。
アイルランドの片田舎の若い女性がブルックリンへ渡って、仕事・恋愛・家族といった誰もが直面する問題にぶつかり、己の道を選択していく。
どこにでもある話も、脚色によって立派なストーリーに仕上げられるし、また、そもそもどんな物語も、原色自体が色彩や情緒に溢れているとも言える。
ブルックリンで出会ったイタリア系の青年と恋に落ち、結婚する。しかしその直後、故郷のアイルランドに一時帰国することになり、そこで現地の青年に想いを寄せられる。
誰も悪くない。
ここにあるのは運命・選択という系列の問題だ。
ここに描かれているのは、単なる恋愛問題ではない。誰かが歓喜し、誰かが振られるという一時的な問題ではない。
恋愛や結婚は人の一生における一大事かもしれないが、ここで描かれているのは、もっと大きなもの、恋愛や結婚という形を借りて現れている運命という目に見えないものを前にして、何を選択していいのか途方にくれてしまうという問題である。
選択とは運命の問題系である。
そこで何が選択されるかは神のみぞ知る。
しかし、人はその運命をあらかじめ感じている。予感している。
何を選択するかは、一つのきっかけがあれば、本心の引き金は引かれる。
彼女は、何を選択したいか本心では分かっていた。
けれど、母親のためにアイルランドに居続けたいように装っていた。
彼女は、母親とブルックリンに残して来た夫という、二人の愛する人のために引き裂かれていた。引き裂かれそうになった。皮肉なことに、それを救ったのは主人公が嘗て働いていた店の女主人、街一番の魔女だった。
何かを選択すること。それは、大人になるということ。一人前になるということ。腹をくくるということ。運命という風景のはっきりしないものを見開くということ。
そして、それは本人にしか出来ない。
「あなたのためならなんでも買ってやりたい。でも未来は買えない。あなたの望む人生はね。」
この映画では、サクセスストーリーが語られるが、それは一例であって、選択とは人の数だけあり、負けのストーリーも、どん底のストーリーもあり、どのストーリーでも人は、選択という名の運命を生きる。
一つの選択をしたならば、他の選択肢は背後に押しやられる。
他の選択肢を選択しなかったことから来る苦しさや悲しみに耐えるということ。そのこともまた、この映画は臨場感を持って示している。
「今、お別れを言うわ。一度だけね。」
この映画の最後の場面は、ハッピーエンドを示している訳ではない。それは、彼女の選択の結果を示しているのであり、彼女が一つの選択=運命を自ら示し、それを受け入れて、神に一歩近づいたことを示している。
「いつか太陽が昇るわ。すぐには分からないけど、光が差すの。」
一つ一つのシーンがよく練られていて、映像の構図・色彩、脚色が際立っている。
原作も読んでみると、より細かい知識と背景が得られる。
次の町山智浩の語りも役に立つ。