ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

平成の風景1。Mr.Children〜声から意味へ〜

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平成が始まる直前の1月4日、私はある建物の食堂にいてテレビで天皇陛下の容態を見ていた。年号が変わるだろうなど初めての経験であったし、そもそも昭和が終わるということ自体に実感がなかった。

だけど、昭和64年(1989年)1月7日早朝、昭和はあっけなく終焉を迎えた。天皇崩御である。

 

私の平成史は、私の東京生活史とほぼ重なり、それは日本の中心での動きを直接肌で感じ取れる都市生活史であった。

平成の風景。それはどんなものだったのか。

 

私が平成4年(1992年)2月、東京に移り住んで間も無く、あるバンドが巷を賑わしていた。Mr.Childrenの登場である。街を歩いても彼らの音楽が流れ、友達の会話を聞いていても、ミスチルの話題はよく耳にした。だけど私には、メジャーな曲はよく街で聞くから知っているだけで、何が良いのか全く分からなかった。

しかし、そういう私にも一つだけ聞き惚れてしまうものがあった。それはボーカルの櫻井和寿の声であった。私には彼の作る曲の良さは理解できなかったけれど、彼の声、彼の歌い方、彼の歌唱力が、天性の際立って特別なものであることはすぐに理解できた。

 

もともと和製ビートルズ的なバンドとしてスタートした彼らの曲に、他のバンドと差別できるような特徴はなかった。

初期のミスチルを牽引していたのは、櫻井の曲ではなく櫻井の歌声であった。誰もが皆、彼の声色に惹きつけられた。

 

平成13年(2001年)4月に坂本龍一が企画した地雷除去キャンペーン「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」があった。

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今でもその光景をよく覚えているのだが、そこに参加した櫻井を、一瞬ではあったが坂本が冷たくあしらう場面があった。

それはたまたまだったのかもしれないけれど、私はずっとその光景が目に焼き付いて、気になっていた。

結局、無意識にせよ、坂本龍一は櫻井をボーカリストとしては注目していたけれど、その時点では音楽家としては認めていなかったということではないかと思う。 

だが、櫻井の音色とでも呼べるもの、「声に名前が付いている」とでも言うべき、その声に坂本は注目していて、このゼロソングでも、櫻井のソロに特別な位置を与えている。

坂本龍一 ☆ zero Landmine_02 - YouTube

 

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 平成15年(2003年)11月19日「くるみ」が発売される。

PVの最後にも示されている通り、「くるみ」から実質的なMr.Childrenの歩みが始まる。

[MV] Mr. Children _ くるみ (Kurumi) on Vimeo

 

このPVには、すでに誕生しているミスチルの誕生の瞬間を振り返り、冷静に客観的に観察する視線がある。純粋な昭和の精神であるMr.ADULTSを過ぎ去ったものとして確認し、自分たちをMr.Childrenという、子供だけど大人、大人だけど子供という二重性として認識する。 

nyan55.hatenablog.com

 

個人的な一つのバンドと平成という時代を、単純に結びつけるのは危険であるが、戦後の高度成長の時代である昭和、ストレートな時代である昭和から離陸し、混乱の時代平成へと着地していく私たちが体験したのは、素直では生きていけない、純粋だと生きていけない時代の到来ではなかったか。

ミスチルの作品は、ありふれた恋愛ソングを歌う昭和的な音楽から、「くるみ」に象徴される音楽によって脱皮し、二枚重ねの複雑な作品へと移行することで、時代精神と共鳴して行った。

 

昭和は表面的な事象だけで生きていけた。櫻井の声色だけで生きていけた。しかし、平成は表面的な事象の裏を問われる時代となった。ミスチルも櫻井の声を超えて、その作品の複雑性によって時代と共鳴し始めた。

チェスのようなこの世界で

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紅葉の街をいくつか歩いた。

色彩は私たちの生活に細やかな賑わいを見せる。

流れていく風、きらめく木漏れ日、さらさらと小さな音を立ててもみじの葉がざわめく。

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誰もが今を生きるしかない。

豊かであっても、貧しくても、今を生きるしかない。

神社の灯篭は、訪れる人に等しくその幻のごとき明かりを届ける。

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19世紀に統一されたイタリアは、長い期間にわたって小国が乱立する世界であった。

チェスのごとく、王や民衆や軍隊は想像の範疇で行動するものの、先を読むことはできない。

平成の社会は終わろうとしているけれど、未来を読むことはできない。

いつの時代も過去から繰り返されてきたことの反芻である。

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高く空に向かって、赤色の葉が劈いていく。

地上の方では、七五三や紅葉見物の人たちで騒めいている。

私たちはどこに向かっているのだろう?

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 赤、人目をひく赤色、秋になって突然現れる赤色。

血管を切ってしまったかのように、突然辺りを染めてしまう。

黄昏時、漁火も赤々と燃え出し、夕方、海の色も少しの間、赤色に染まる。

紅葉は、我々が生きていることの証を、世界が赤色に染まって木々や私たちが生きていることの証を、垣間見せてくれる。

霜月騒動

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和歌山市を訪れた。

紅葉を撮影した。

街はかなり紅色に染まっていて、あちこちの場所で色彩の綾なす空間を観賞することが出来た。

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主に和歌山城を撮影した。

徳川御三家の栄華が偲ばれるほどに、和歌山城は堂々とした城であった。

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12月近くなると、銀座の山野楽器によく行っていた。

その頃になると、CDも新譜が発売されることが多く、大きなCD店に行くことは楽しかった。

現在は、ネット上で音楽が聴けるし、CDを購入しなくても、安い値段で様々な音楽を聴けるようになった。

特に私のような、様々なジャンルを聴くものにとっては喜ばしいことである。

だけど、このこと一つとっても、時代は変化している。

結局、私はCDショップに足を運ばなくなったのだ。

銀座の山野楽器は背後に退き、近くのコンビニで売られているitunes cardで事足りるようになった。

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 平成が始まって30年が経過し、あと少しで幕を閉じようとしている。

年号など、ただの意味のない括りだと考えることもできるけれど、その一つの意図的な括りの中で、時代の変化を把握することも意味がないことではない。

昭和の風景、平成初期の風景、平成終期の風景

どれも同じではない。

パソコン一つとっても、大きく変化した。

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)

 

 柳田國男ではないけれど、今の時代、様々な領域で大きな地殻変動が起こっていると思う。

男女関係、金融、メディア、人間の形、国際関係、仕事の種類、、、

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やっと、ブログがimacで書けるようになった。

他の作業をしながら、少しずつ書く形でないとブログは書けない。

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 もう11月も終わりに近い。

街にはクリスマスの響きが聞こえ始めた。

商店街は年末の様相を呈し、週末のカップルや家族連れの賑やかな姿も、年末に向けて舵を切っているように見える。

 

21年前の11月、山一證券が自主廃業した。衝撃だった。北海道拓殖銀行も倒産した。

その後も、数多くの銀行が倒産に追い込まれた。

日本社会はどうなってしまうんだろうと危機感に迫られた。

あれから我々は下降線を辿り、経済的には豊かでないが、何とか折り合いのつけられる生活にまでは日常を維持できるようになった。

 

霜月を乗り越え、今年も師走へと向かう。

世界は少しずれて、繰り返す

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しばらく前ですが、明石海峡大橋を撮影しました。

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海を見たのは久しぶりでした。

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橋が淡路島に向けて一直線に、ダイナミックに、繋がっていきます。

増補改訂版 新・リュミエール―フランス文法参考書

増補改訂版 新・リュミエール―フランス文法参考書

 

 秋の夜長、時間ができると私はどうしても書物が読みたくなります。

どうしてだか、昔かじったフランス語の参考書を見てると楽しい。

 チェスをネットで電車移動中にやっています。暇つぶしになるし、やっぱり面白いし、手軽にできる。

三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書)

三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書)

 

 アマゾンではベストセラー第一位みたいですが、疑問点はあるにせよ、三島の残した難題によく回答を与えたなと感心しました。答えの正しさよりも、そこに至る思考過程の重要さを改めて感じました。

コンビニにいつも置いてあって気になっていました。

ゼロってなんだろうって?

コナンと合わせて読めば面白さ倍増です。

重力と呼吸

重力と呼吸

 

 全然知りませんでした。数日前に気づいて、購入しました。まだApple Musicには入ってなかったから。

まだ聞いている途中だからなんとも言えませんが、ミスチルには長く活動を続けて欲しいと思います。

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 秋の夜長、いつもと少しずれた世界にいるように思える。

オウムの幹部たちは何を思って死んで行ったのだろうか。

事件当時も現在も、宗教・宗教的なものに精神的な支えを求めている人たちは数多くいる。

私たちの歴史にいつも随伴する宗教・宗教的なもの、その必然性をよく考えてみる必要があると思う。

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秋になると、夜よくオートバイに乗って出かけた。佇む月や星を背にして、ネオンライトの通りをひたすら走り続けた。

当てもなく走り続けて、偶然見つけた食堂で定食を食べ、満足すると、また似たような道を走って宿舎やアパートに帰った。

ただ、夜道を走りたかっただけかもしれない。月明かりに照らされたかっただけかもしれない。

あの時から数えられないほどの月日が経過してしまった。でも、現在、あの時から見て未来が来たのではない。

未来は過去。人は変わらないし、同じことを繰り返す。

時が経っても、私たちは同じもの、姿は違えど同じものを求め続ける。

月夜、涼しく静かな月夜

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はてなブログimacからログインできなくなってしまった。どうしてなのか調べてみないと分からない。

mac bookからだとログインできる。

 

しばらく風邪気味だった。私には珍しく昼から退社した日もあった。風邪薬を飲んで寝たら随分マシになったけれど、風邪を引く前から寝不足だなと思っていた。気温の変化も相まって、体が休めよと知らせてくれたのだろう。

 

imacを導入してからmac bookは遠出のときくらいしか使用しなくなった。でも、mac bookのキーボードはとても打ちやすい。指とキーボードが一体となってスイスイ入力できる。

 

ジャズやピアノは秋に似合う。部屋で流していると、季節の厚みがより感じられる。

昨日久しぶりに街に出た。人は多かったし、新しい店もできていた。

統計数字によって日本の姿を把握することも必要だけれど、街を行き交う人々の様々な表情から、彼らの日常や悩みを想像することも大切なことだと思う。

 

バブル期の豊かな日本からは想像もつかないほど貧困な国になってしまった。経済的な土台があって初めて人は次の欲望を満たそうとする。

毎日を生きるだけで精一杯の人で溢れている。

 

長い間、大阪のある街にずっと行けなかった。だけど、やっと昨日行くことができた。過去を過去として認めることが漸くできたのだろう。

街は大きく変わっていた。時の流れを感じた。今頃来たところで、もう昔の面影は剥がれ落ちている。

 

高齢になっても頑丈で二枚目の父親が転んで骨折した。

人はいつまでも元気な訳はない。随分前に吉本さんが海で溺れたときも、ああこの人も年なんだなあと感じた。

 

街も人も、変化していく。

あとで後悔しないように、出来ることは出来るときにやっておくのがいいのだろう。

だけど、フロイトが、父親が死ぬまでローマに行けなかったように、私も長い時間を経過しないと大阪の、とある場所に行けなかった。

後悔するとしても出来ないことはある。難しい。

洋上の人となりにければ

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しばらく更新していなかった。半月ほどしていなかった。私にしては珍しいことだ。

仕事が忙しい訳ではなかった。むしろ楽になってきていた。

夏の疲れで眠くなるのが早かったが、書く時間がない訳ではなかった。

忘れていたのでもない。結局、書く気が起きなかったのだ。

 

今年もまた、Mさんは東南アジアへの洋上の人となってしまった。

もう秋だ。秋は好きだが、ここ数年、秋が少し嫌いになった。秋になると彼女がいなくなってしまうからだ。

このこともブログ更新をしなかった理由だと思う。

 

もう10月だ。今年は台風が頻繁に到来する。

まだ秋晴れの穏やかな休日を経験していない。

ゴッドファーザー』を見た。随分昔の映画だ。だけど今でも色褪せない。

イタリア系マフィアの年代記。人は、家族という重くて軽い集団と分かち難く結びついている。それは普遍的なものだ。マフィアの家族を描きながら、問題はどの人にも当てはまる。

 

秋の到来とともに、寒さも顔を見せ始めた。

一斉に朝の空気が、朝の気配が、夕方の景色が、寒さを伴って少しずつ変貌していく。

しかし、今年は秋への変化の合間合間に秋雨が台風が顔を覗かせる。

大学2年生の秋に、初めて村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだ。

その年の秋も、雨がよく降り続いた。

夜、『世界の終わり〜』を読んでいると、雨が音を立てて雨戸を叩いた。

 

この小説を、私はしばらくの間、解読できなかった。その構成が全く理解できなかった。

現在のように解読本がある訳でもなく、大江健三郎が登場した時のように、分かりにくい小説はいつまで経っても分かりにくいままであり続けた。

村上の小説は文体の読みやすさとは裏腹に、非常に解読しにくい構成・内容なのだ。あたかも、Mr.Childrenが、その分かりやすい詩を描きながら、非常に歌いにくい音階を構成しているように、体に馴染むまでに時間がかかるのだ。

 

ともかく、2018年の10月となり、本格的な秋の到来となった。

平成最後の〜という言い方がされるが、私たちは平成30年よりも2018年の世界に住んでいると言った方が正しいと思う。

世界は分かち難く結びついていて、平成というのはその中のローカルな一つのシステム・リズムに過ぎない。

だけど、私はそのどちらにも全面的に組したくないと思う。どちらともまた別のリズム・時間感覚・生き方で歩んで行きたいと思う。

新しい空気を入れて

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今日、仕事があった。

早朝、いつもと異なる交通手段で通勤した。

普段は通らない民家の垣根や玄関のある通りを抜けた。そこはかつて、私も属していた空間だった。人のぬくもりの匂いがした。人が生きている感触が伝わってきた。

私も東京のいくつかの場所で、こうした風景に囲まれて暮らしていた。

一体、あの時の光景はどこに言ってしまったんだろうと考えた。

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昼から外部研修があったので、外出した。帰りに本屋に寄った。

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

上野先生が新刊を出されていた。 

先生の本にはほとんど接してきている。『構造主義の冒険』、『家父長制と資本制』などの初期の著作から、最近の『おひとりさま』シリーズまで、どの著作も無駄がなく本質的で、現実を見据えた内容であり、毎回切れ味鋭く、私には畏れ多い。

昔、一度先生の授業を覗いたことがあったが、しばらくして私にはこの講義は無理だと思い、教室を出た。というのは、ほんの少し話を聞いただけで、先生の性格というのか、生き方というのか、学問にかけるひたむきさというのか、そうしたものの圧倒的な迫力を感じてしまい、私にはこの人の空気を受けるには力が足りなさすぎると感じたからであった。

正直、その時はなぜ息苦しいのか分からなかったけれど、その教室にいることが耐えられなくなって、部屋を出たのであった。

後年、何かの雑誌かインタヴューかで読んだのだが、上野先生が若い頃にシカゴ大学に研究に行った時の話が載っていた。

その記事には、私は外国で日本語以外の言葉を使って研究者として生きていくことはできない、自信がない、と書かれていた。自分が自信を持ってやっていけるのは、日本語のお陰だからと書かれていた。

私は、この記事を読んだ時、あの上野千鶴子が弱音を吐いていたんだと知って、かなり衝撃を受けた。誰にも論争で負けたことがない先生が、弱音を吐いている。だけど、この人は正直だなと思った。そしてまた一層、その凄さを感じてしまった。

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今朝見た、昔懐かしい裏路地の光景。上野千鶴子のすごさ。

この二つは繋がっている。どちらも地に足をつけ、現実を見据えているという点で、共通している。

若い頃、特に学生時代は、未来に、社会に、希望を期待を持って生きている。それは社会を知らないからだ。私もそうであった。村上春樹の小説や上野千鶴子の研究書やレヴィ=ストロースの人類学を読みながら、社会や人やこの世について、何か分かったつもりになっていた。未来に明るい世界があるように思っていた。でも社会に出たらそうではなかった。

けれど、彼らの書物の中に、既に、社会についての世の中についての鋭い洞察や明確な事実は書かれていたのだ。私がそれを読み抜いていなかっただけなのだ。

 

そしてまた、書物にだけ現実が書かれているのではない。世間に社会に生きる無数の人々の声や動きや空気の中に、現実ということの姿は既に描かれている。