新年度に入って、なかなか忙しくなってきた。
自分の時間もあまり取れない。
先日、もう長いこと会っていない妹の最近の写真を見せてもらった。
私が知る妹と比べて、随分歳を取っている感じの写真だった。
そこには、長年の子育てや家族・社会との色々な営みを通り越して、一皮も二皮もむけた妹の像があった。
彼女も長年の間に、逞しく、また優しくなっているんだろうなと思った。
自分の姿は自分には分かりにくい。
他人という鏡を通じて、初めてより明瞭な自己像が浮かび上がる。
「客観性のおぞましさ」という言葉がある。
例えば、写真で自分の姿を見て、自分はこんなに老けているのかとか、こんなに太っているのかとか、そういう客観的な姿を見せられて、自分の頭の中で描いている自己像とのギャップに愕然とすることである。
自分の声を聞きたくないという人は多い。
これも、自分の知っている自分の声とはズレた歪な声に聞こえるからだと思う。
けれど、自分の本当の姿とはなんだろうか?
写真だって、それが本当の姿というわけではない。
私たちは光の国の住人である。
光がないと私たちの姿は見えてこない。
そういう点では、私たちは光によって浮かび上がる幽霊、実体のない存在と言えるかもしれない。
アリスやチェシャ猫やトランプの女王たちと同じように、私たちもまた虚構の世界と重なり合っている存在なのだろう。