ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

令和元年からのデザイナー

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 GWも真ん中あたり。平成が終わり、令和が始まった。

私は、仕事の準備をしたり、部屋の整理をしたり、美味しいものを食べたり、本を読んだり、、、

GWが始まった頃は眠くて眠くて、早起きはするけれど、すぐに寝てしまう状態だった。やっと、昼間眠くならなくなって来た。

 

旅行に行こうかと思ったりするが、結構あちこち行って来たし、近場の方が知らないなあ、と思う。

何をするにしても、時間を無駄にしたくないと思う。ぼーっとする時間も必要時間と考えて、無駄にしたくないと思う。

 

音楽も久しぶりにゆっくりと聴いているのだが、あいみょんは落ち着くなあと思う。

瞬間的シックスセンス

瞬間的シックスセンス

 

 映画は、何度も見ているのだが、ブレードランナーが気になってしまう。

ブレードランナーファンならご存知だと思うけれど、2019年と2049年の間に起こった出来事が、3つの短編映画として製作されている。この3つもなかなかスゴイ作品で、架空とは言え、これらトータル5つの作品は、我々の未来史の一端を掠めているように思う。

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

 

 今関心を持って読んでいるのは、新記号論

これはとにかく面白いし、フロイトと心の問題を中心に取り上げている。

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令和になったけれど、何かが変化していくのは、これからだ。

自分を自分でプロデュース・デザインしていくことが、意識しないと難しいが、高齢化社会を迎えての生き甲斐と密接に関わってくると思う。

今、落ち着いて振り返ってみると、他人や社会の圧迫や模倣で、自分の考えが流されていないだろうか?

他に流されて自分がなくなっている人は大勢いると思う。

 

令和元年からのデザイナーは自分だと言い聞かせたらどうだろうか。

身体性以上の速度を求めて

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仕事が終わり、そう今日もあったのだ、電車に乗り込んで、気の向くまま山陽方面に向かっている。

 

電車にしばらく乗りたくなったのだ。

自分の身体以上の速さを求めて、一っ飛びで遥か遠くまで行きたくなる時がある。

 

それは、どうしたことが原因かは定かではない。

仕事で歩き回り、走り回っていたからかも知れない。自宅で、ずっと座って作業をしている時は、そうはならない。

 

ともかく、電車の速さは心地よい。ぐんぐんと景色を後背に退けていく爽快さ。

もう暗くなって来たから、景色は見えなくなったが、ともし火の欠片が次第次第に流れ去っていく。

 

眠るよりも、電車に乗る方が疲労は回復する。身体の欲する速度のバランスが回復して行く。

 

今日はどこまで行こうか?

磯の香りが漂う涯まで行ったら、トンボ返りしようか?

 

オブラディオブラダ

何がどうあれ、人生は続いていく。

春の歌〜微かな春の調べを聴け〜

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春の訪れ

 

4月1日。入社式や入学式で、街は朝からごった返していた。JRや市バスは鮨詰めで、なかなか目的地に到着しない。

何か、新しいことが起こりそうな予感がする。新しい自分に出会えそうな気分がする。

春は人をそうした気分にさせる。

 

社会の方向性、私たちの精神の状態といったものは、学問的に分析することもできる。

もちろん、それも素敵なことではある。

しかし、世間の風を浴び、緑滴る木々を目にする人たちが、普通に直感する感情もまた、言葉以前に現れる明晰として、社会や人の形の真実を伝えている。

 

4月の春の景色は、そうした我々の直感が如実に現れてくるのに貢献している。

 

春風 木漏れ日 桜舞い散る道

いくつもの出会いと別れ

握りしめて歩こう

 

春の歌、桜の歌は多い。

春や桜には出会いと別れのドラマがある。

 

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今日、新元号の発表があった。来月から令和という時代が始まる。

平成が昭和天皇崩御によって始まったのと異なり、令和は春のように、新鮮な予感とともに始まった。

 

振り返ってみれば、平成は冬の時代だったのだと思う。

 

昭和は、一言では語れないほど、大きく、混沌とした、起伏のある時代だった。

そして、平成は昭和のシステムを粉々に崩してしまった。

安定していた昭和のシステムが、平成では綻び始め用済みになった。

 

システムが崩れていくと、社会を不安定にさせる。

平成は不安定な、冬の時代だったのだ。

 

令和は、春のごとく現れて、春のごとく時代を牽引できるだろうか。

我々は、新しい春の時代に出会うことが出来るのだろうか。

 

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重い足でぬかるむ道を来た

トゲのある藪をかき分けてきた

食べられそうな全てを食べた

 

長いトンネルをくぐり抜けた時

見慣れない色に包まれていった

実はまだ始まったとこだった

 

春の歌 愛と希望より前に響く

聞こえるか?

遠い空に映る君にも

 

現在は、愛や希望といった明瞭な形になっている以前の状態なのだ。

春という仮象を伴って、微かに拡がり始めた新しい時代の声

その調べを、私たちは耳を澄ませて聞くことが出来るだろうか。

我々の次の時代は、本当にまだ始まったばかりなのだ。

冬来りなば春遠からじ

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机の上の一瞬の風景

机に座った時の居心地の良さ

書物に囲まれ、文字に囲まれ、画像や映像や音に囲まれている安心感

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タイピングも手書きも、どちらも必要

頭の違った場所を使っている

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外では樹々が青々と茂っている

もうすぐ4月 もう春だ

そろそろバックパックを背負って、また遠出しようと思う

猫になりたい

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先斗町を足早に歩いていたら、二匹の猫が丸く蹲っているのを見つけた。

猫は、場所によって顔つきが変わる。

A町の猫たちが美人ぞろいだとすると、B町の猫は太っていたり、C町の猫はあまり可愛くないとか、、、そういう傾向がある。

練馬区のある街に住んでいた時、その界隈の猫たちは美人ぞろいだった。

猫って、ふてぶてしいイメージが強かったけれど、この街にいた時は猫に愛着が湧いた。

学生の頃、半年ばかり、猫を預かっていたことがあった。

その猫は、部屋の高いところばかりに移動するので、いつも私は猫を下から見上げる形になっていた。

比較的、落ち着いた性格で顔立ちも綺麗だった。

私が名前を呼ぶと振り向いたけれど、猫らしく、いつも自分のペースで暮らしていた。

 

猫になりたい 言葉ははかない

消えないように 傷つけてあげるよ

 

言葉の世界が優っているのか、身体の世界が優っているのか。

人間の世界と猫の世界

 若い頃、マンションに帰ってテレビをつけると、東京ラブストーリーをやっていた。テレビは流しているだけで、あまり真剣に見なかった。音楽を流しているのと同じだ。

小田和正の歌声はよく覚えているけれど、このドラマのストーリーはあまり覚えていなかった。

原作の漫画も読んだことがなかったけれど、その25年後の物語が綴られているということで少し興味があり、出版された当時、読んでみた。

 

昨日、何気なく手にとって、もう一度読んでみた。

中高年になった人は、一度手にとってみるのもいいと思う。

歳を重ねていくこと、人との繋がりが如何に貴重な大切なものかということ、生きるという混沌とした現象をポジティブに楽しく変換して生きていくこと、といったテーマが等身大に語られている。

 気になったので、元々の原作も読んでみようと思う。

1巻を少しめくってみたけど、名作だと感じた。

 

恋愛、家族愛、友情といった愛という、人間特有の不思議な現象

 

愛は「愛している」という言葉の中に存在するわけではない。

「愛」は、生い繁った樹々の葉の隙間をひらひらと蝶が現れては隠れるように、瞬間、姿を見せてはすぐに消えてしまう。

東京ラブストーリーAfter Wordから

 

猫になりたい 言葉ははかない

消えないように 傷つけてあげるよ

 

言葉ははかない。だけど、言葉だけが愛を伝えるのではない。

猫になりたい。だけど、猫のように伝えることだけが、愛ではない。

 

言葉と、身体と、心と、そうしたことどもの間、人と人との間、人と人との関係性にこそ、愛は存在する。

年齢を重ねて

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原宿駅で降りて竹下通りを抜け、裏道を通りながら会社まで行った。時には外苑前で降りて出社することもあった。

近くに明治神宮もあり、荘厳さとお洒落さが同居している街だった。

いつ歩いても落ち着いた感じで、人は確かにたくさん歩いていたが、息苦しい雰囲気ではなかった。

 

私が過ごし、歩いてきた数多くの街並み

市川、船橋、江戸川や葛飾といった下町の風情

練馬や東村山や西東京といった西武方面の風景

所沢から川越、大宮へと続く埼玉の景色

大岡山、目黒、自由が丘も好きな町だった。

武蔵野線常磐線から見える郊外、、、、

 

あの頃、私が目にし体験していたことは、今でもそこにあるのだろうか。

私の生活は大きく変わってしまった。 

 

国境の南、太陽の西」を読むと、脳裏には当時の空気が蘇ってくる。

私も先週一つ歳を取ってしまった。 

今いる場所は、居心地が良くもあり、その反面、希望や清々しさが少ない。

 

私の幸せは、いつも何気なく見ていた景色の中にあったのだと思う。

通りを行き交う人々の表情や朝の太陽を浴びて反射する二階の硝子戸

夕方、カラスの声とともに暮れていく月光と交差する日輪の光が、アパートの壁に薄っすらと色をつける。

 

我々の世界は文学に満ちている。

日常の中に、個人的な掛け替えのない色調を見出すことで、世界はいかようにも変化していく。

 

私は文学を志したことはない。しかし、文学的に生きようと20代に決めた。

それは、世界と接触する地点において、私と接触する平面の襞を私の感情とともに生きることであった。

以前より鳥肌が立つほどの感慨は得られなくなったけれど、それでも、世界と接触する時の私の感情は、今でも自分が生きて感覚することに対しての畏怖の念とともにある。