ずっと昔、まだ小学生の頃、秋頃だったろうか、夕方、自宅の庭から、見たこともない物体が飛んでいるのを目撃したことがあった。
それがどんな物体だったか、今ではうっすらとしか覚えていない。クラゲのような薄い白色をした飛行船のようなものだったと思う。
そばに妹もいて、一緒に見上げていた。なんだろう、今の?と言っているうちに、気がついたら消えてしまっていた。ただの雲だったのかもしれない。でも、確かに2人で目撃した。
遠い過去の記憶。
まだ言葉も喋れない頃に見た玉虫のことを、大きくなってから、その玉虫を一緒に見た祖母に話したら驚いていた。
記憶の保存場所が、どこかにあるのだろう。
私たちは、どこから来たのだろうか?
その記憶を遡って行ったところで、どこにも行けない。
父も母も、そう遠くない将来、存在を消してしまうだろう。
街は、古びた過去の綻びを身にまといながら、少しずつ変色していく。
19世紀後半、アルチュール・ランボーは21歳で詩を創作するのを辞め、武器商人になった。
彼にとって、人間世界は険しいものだったのだろうか。詩は、商売は、彼を何処かへ連れて行ったのだろうか。
深夜、耳を澄ませると、世界は停止してはいない。どこからか、何かの音が聞こえて来て、遠のいていく。世界から音はそう簡単にはなくならない。
ランボーは、砂漠の商人になった。砂漠には音はないのだろうか。風の音、砂の音、どんな音がするのだろう。
ランボーは黄色が好きだったという。jaune、
砂漠の色、詩の色、黄色、その色彩にランボーは自身の記憶を辿っていたのだろうか。
埼玉の狭山で、駅前の居酒屋に行ったことがあった。周囲にはそれほど店はなく、そのチェーン店の店がぽつんと一軒あるだけだった。
少しの間、その店で飲んで帰ったように思う。
普通の、日常の、ありふれた出来事。記憶ではあるが、記憶に値するほどではないちっぽけな出来事。
自己の一貫性は、記憶にあると言われる。
『ブレードランナー』も「記憶」の映画だっだ。
しかし、記憶があるから、つまり自身の過去があるから、それに縛られて生きてしまうのでは、私たちは変わることができない。
「勇気」とは、「今を生きる」と同義語。
Ce qui embellit le désert, c’est qu’il cache un puits quelque part