ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

There is no such thing as coincidence.

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この世に偶然などない。全ては必然だ。

There is no such thing as coincidence.

 

大きな災害に見舞われたり、交通事故に遭遇したり、空き巣に入られたり。

 

もう随分前に、東京の青山に父親が来たことがあった。洒落たバーで酒を飲んだ。

何を話したか覚えていないが、父はご機嫌で、魔術のように夜は更けていった。翌日父親は帰っていった。

後にも先にもこんな風に父親と酒を飲んだことはない。何がそうさせたのか。

 

誰かと出会い、気になり好きになる。

最初はそうでなくても、感情が訪れて、好きになってしまう。

 

オウム真理教の人たち。彼らも真理を求め、希望を携えて、大志を抱いて宗教活動をしていたのだと思う。

でも、なぜああなってしまったのか。

 

全ては必然なのか。偶然ではないのか。

偶然と必然は出来事を観察する人の位置によって変わってしまうだけだ。

神にとって全ては必然だ。しかし、出来事に直面している人にとっては偶然だ。

 

男性は押し並べて出来事と直面しないで避けてしまう人が多いと思う。

反対に女性は出来事を直視し逃げないでぶつかっていく人が多いと思う。

この点で、女性の方が必然性を身に帯びようとしているように思う。

でもこれはどうしてなのだろうか。

 

漠然と思うのは、出来事を直視しないと女性は社会で生きにくいからではないだろうか。全てをあやふやの偶然に身を任せていれば、悪い方に転ぶかもしれない。

ならば、先手先手で、起きた出来事を直視して、正確に判断し、次の手を考える。その方が生きやすい。

私が出会った数多くの女性はみんな、必然性をおびき寄せる人たちであった。

もちろん男性でもそうした人はいる。男性でそうしたタイプの人は、生き方において優秀な人たちであった。でも、多くの男性はあやふやなまま生きていても許され、社会を渡っていける。

 

There is no such thing as coincidence.

全ては必然と考え、出来事を直視すること。

それは怖いことだろう。

だけど、その生き方のほうがかっこいい。 

昭和は遠くなりにけり

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ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこが逝去した。

平成とともに始まったアニメ版をよく見ていた。そこに描かれていたのは昭和時代であった。数年前に昭和が終わったから、懐かしさもなく、世間にはまだ昭和の名残があった。

昭和時代とは何だったのだろうか。平成が始まった頃には、はっきりとは分からなかった。

長渕剛は昭和が終わった直後に、「昭和」という曲を書いた。

 

傷つけば傷つくほど優しくなれた

貧しさは大きな力になり

意気地のなさは勇気に変わる

・・・

とうとう昭和の歴史が終わった

 

長い長い昭和の歴史。

傷つけば優しくなれ、貧しさも生きる力になり、意気地のなさも勇気になる。

マイナス面がプラス面に直結する時代、昭和。

素直、実直、真面目、正直といった言葉が浮かぶ。

昭和の歩き方は、真面目さがキーワードだった。

 

平成は、昭和とは連続する時代でありながら、そのカラーは異質だった。

平成の歩き方には、ひねり、軽さ、透明といった言葉が必要だった。

 

そして、おそらく、昭和から平成への越境は、1980年代のバブル期に徐々に行われたのだと思う。

 

今やもうすぐ、平成も終わろうとしている。

時代は、真面目さから軽さへ、そしてどこへ向かおうとするのか。

昭和は遠くなってしまった。

孤独はなぜ僕を見つめ続ける?

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老後をどう過ごすか?

 

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の私は、ギリシア語とチェロを練習する老後を思い描いている。

これは私の理想にも近い。語学と音楽好きな私も、ピアノ、バイオリン、フルートなどとギリシア語、ロシア語、中国語などを学ぶのは楽しいと思う。

肘掛け揺り籠椅子にゆったりと座り、BOSEスピーカーから流れてくるシューベルトサンサーンスを聴きながら、『Aufscreibe systeme』や『Pride & Prejudice』をゆっくり読んでいく。

料理は、すぐに作れるようにキッチンをすぐそばに備えて、冷蔵庫に必要な食材を準備しておく。全てを近くに配備しておくのだ。

近くに川や湖があれば良いなと思う。

 

こうした生活は普通に可能だと思う。

だが、緩急がないと飽きてしまうだろう。

 

『Pride & Prejudice』の作者ジェーン・オースティンは、18世紀後半から19世紀初頭を生きた。人は自分の生を選べない。偶然、生まれ落ちた世界で生きるしかない。

今は大変な時代だ、と人は言う。しかし今が大変なのではなく 、どの時代であれ、生きること自体が大変なのだ。

 

人は強くもあり弱くもある。

強く見えていても、それは何かの支えがあるからなのだ。

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私たちの心は、ルール・構造・広さ・初期値等のような概念を当てはめることで、より明晰に心の形を把握できるように思う。

そうしたことを行なっているのは、心理学や精神分析学などの心の学問であるけれど、

 学問として考える前に、私たちは相手の心を汲み取り、それに対して行動を起こしている。

心は頭脳よりも素早く相手の心を捉える。心の位置は頭だと言われるけれど、心と思考のスピードは同じではない。

考える速さよりも感じる速さの方が速い。

私たちは考えて理解に到達するより前に、相手の心を感じている。

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老後の過ごし方を書いたけれど、何かをするということ以上に、人の心の存在が必要だと思う。

頭脳だけではなく心を持つ私たちは、AIと異なり、人と人との間に存在している目に見えないもの、愛・信頼・空気といったものが、その住処となっている。

空気のない場所では生物として生きていけないのと同じく、愛や信頼のない場所で、私たちは人として生きていけない。

私たちは生物として老いていくけれど、人として老いていく訳ではない。私たちは消滅するまで人であり続ける。

 

孤独はなぜ僕を見つめ続ける?

崎谷は憂鬱だ

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当時まだマイナーだった崎谷健次郎の曲に触れたのは、たまたま後輩の部屋に行ったことがきっかけだった。

何の曲だったか覚えていないのだが、崎谷の曲が流れていて、それまで聴いたこともない曲調と歌声であり、これ誰?と聞いた。

それから数年、ずっと聴いていた。だから、当時の記憶の中の風景には、崎谷の音楽が少なからず登場していた。

でもいつの頃からか、全く聴かなくなってしまった。

 

何かの拍子で、一瞬彼のメロディーが横切る時があったが、すぐに消えて行っていた。何度も何度も聴いていた音楽だから、懐かしいと思っても、それ以上深追いして彼の曲を引き出そうとはしてこなかった。

今日はどうした訳か、崎谷の曲が「アクリル色の微笑み」が、私の中で流れ出した。

おそらく、8月もお盆が明け夏休みも終わりに近づき、秋の気配が漂ってきたからだと思う。私の記憶の中で、「アクリル色の微笑み」と今の季節は大きくリンクしている。しかも、私はこの曲とほぼ同時期に、アクリルという素材に初めて触れたのだ。

 

風景、音楽、匂い、光景、空気といった一連の言葉は、連鎖しあって過去の記憶を呼び覚ます。

 

巨大な影 傾く都会で

僕はひとり ふりかえり

細い背を みつめる

 

若さゆえの感傷に満ちた記憶と言えるけれど、現在までのこうした記憶の集積体が私と言えなくもない。

 

崎谷は憂鬱だ。しかし、崎谷は憂鬱さを分かって演出している。

憂鬱という空気をいっぱい音楽に送り込んでいる。

メモランダ

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夢印 (ビッグコミックススペシャル)

夢印 (ビッグコミックススペシャル)

 

 浦沢直樹が短期連載していた『夢印』が早くも単行本化している。

これ一冊で完結しているので、いつもの浦沢直樹のような入り組んだストーリー構成ではなく、まさに短編である。夢があり不思議な結末となっている。

赤塚不二夫の漫画キャラクター「イヤミ」が、独特の「ざんす」口上で登場する。

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ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義

ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義

 

 『アンチ・オイディプス』を理解したくて、でも読んで見ても、「なんだこれは?」と途方に暮れた人は多いと思う。

私も長年、読んだり離れたりの繰り返しで、結局、色々な人の解釈とか説明を読んだり聞いたりして、こういうことだろうなくらいで終わっていた。

だけど、この講義録は、ハッとするくらい分かりやすいし、痒いところまで解説してあるので、そうだったんだとか、そうなんだとか、の発見に満ちている。

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EVと自動運転 クルマをどう変えるか (岩波新書)

EVと自動運転 クルマをどう変えるか (岩波新書)

 

自動車が欲しいという欲求はないのだが、過去の仕事柄、自動車の技術・構造に関心がある。

特に、EV・HV・FCVといった今後の自動車のモデルとなって行くエンジンを巡る技術、自動運転・IT化の話題は気になる。

この新書は、現時点の概説書として、EVと自動運転で何が問題となっているのかを解説してくれている。

自動車が好きな人は、トヨタやホンダなどの各メーカーのホームページを見れば、各社がどんなタイプのエンジンに力を入れているかがよく分かる。

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鹿児島市のホテルで見たテレビで、藤山直美が言っていた。

「私の仕事は水に手を突っ込んで字を書くようなもの。書いても書いても消えて行く。今日出来ても明日できるとは限らない。」

彼女のような芸達者でも、そうなんだ。
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mainichi.jp

http://www.soumu.go.jp/main_content/000562106.pdf

気になったニュース。

「圏域」という新しい行政単位が現実化して行くかもしれない。人口減少に対応した政策であり、「人口減少」は行政レベルだけでなく、我々一市民もどうなるか絵に書いて行くのが良いと思う。これから本当に様々な領域で大きな影響を及ぼして行くだろう。

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www.asahi.com

9月1日は一年で一番小中高生の自殺が多い日。

働いている大人だって、お盆休みが明けて仕事に行く初日はかなり嫌だ。

だけど、自殺までに至るということは、並大抵の嫌さではなく、精神的に極度に病んでいるレベルであり、周囲が助けて行かないといけない。

子供が病んでいる場合、親も普通ではない場合が多く、第三者が何らかのアプローチを早目に取って、子供を助けなければいけない。まずは、学校がその任務を果たさなければいけないが、先生自体が余りにも厖大な仕事量や人間関係の重圧で、先生も精神的に負担が大きい。

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 休み中に接触した気になった事柄を、覚書レベルでランダムに記しました。

ぼんやりしていること

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土曜日の午後は、金曜日の朝と同じくらい好きな時間だった。

学生寮のベッドの上に寝転んで、外に生い茂る木々を見ながらぼんやりしていた。

仕事を始めてからも、土曜日の午後は窓の近くに横になって外をぼんやりと見ていた。

夕方になって、外に出て、暮れ行く夕日を眺めながら、近くのスーパーに入って買い物をしていた。

自宅近くにある湖まで歩いて行って、湖畔に並んでいる木のベンチに腰掛けて、水面をぼんやりと見ていた。それほど大きな湖ではなかったけれど、水深は深そうに思えた。

人は、明晰な頭で生きている時間よりも、ぼんやりとしている時間の方が長いのだろうか。

旅は、意外と頭を使う。初めての場所だから、体が自動的に動いてくれない。のんびりと旅をすると言っても、仕事から解放されているだけで、頭はそれなりに動き回っている。 

明確な人生の目標を持って生きている人がどれだけいるのだろうか。

目標を持つこと自体を目標にしているだけではないのだろうか。

私も目標を持たなければいけないと思っていた時期もあった。だけど、湧き上がってくるものがなければ、目標など持ちようがない。

ぼんやりとしているのが目標だろうか。ぼんやりとしていれば、何かが沸き起こってきたとき、すぐにその方へ移行することができる。

音楽は、歌詞のあるものを聞いているよりも、クラシックやジャズの音だけの世界に浸っている方が邪魔にならず楽な時がある。

音も何かのメッセージを伝えてくるが、言葉のように一義的なメッセージにはならない。この音だけの世界にいるのも、ぼんやりとできる空間である。

闇だけでなく、光だけでなく、両者の織り成す世界。明確な意味を与える世界ではなく、どこにでも移動できる世界。

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『狂気の歴史』にしろ、『21世紀の資本』にしろ、『聖書』にしろ、ぼんやりと読んでいる方が理解しやすい。その厖大なページ数を前に、構えて読もうとすると挫折してしまう。あまりじっくり読みすぎると息を切らしてしまう。

 

ぼんやりとして、何が来ても受け入れ、何が来てもそれに移れる柔軟な体勢でいること。

無理しないで言える目標って、これかな。

静かに打ち返す波のように

 

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昨日、旅の最終日、まだ行っていないところで静かな場所と思い、山口県周南市徳山に宿泊した。以前の徳山市だ。

ホテルの目の前に瀬戸内海が横たわっていた。静かに打ち返す波の音が、桟橋にあたり、岸にあたっては、微かなざわめきとなって消えて行く。

遠くの方には大小様々な島が点在し、その間を縫うように、タンカーや漁船や砂利船や遊覧船がゆっくりと走って行く。

時間がゆっくりとゆっくりと動いている。誰かがこのゆっくりとした時間を作り出している。それは海なのかもしれない。

怠けているのではない。ここでは、この時間の流れが普通なのだ。

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夕方頃ホテルに入り、あとはずっと部屋で過ごしていた。

こういう町もいいなと思った。お店がある訳でもなく、観光場所がある訳でもなく、しかし落ち着いていられる。

窓の外から見渡せる景色は、ありふれた駅前の風景だ。駅があり、駐車場があり、線路があり、港がある。

旅に、日常に、我々は何を求めているのだろうか。全てはありのままに動き、なんの不自然さもなく我々の前に姿を現わす。

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なぜめぐり逢うのかを私たちは何も知らない。

いつめぐり逢うのかを私たちはいつも知らない。

どこにいたの。生きてきたの。

遠い空の下。二つの物語。

 

中島みゆき「糸」

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誰もが、みんな、幸せに生きてくれればと思う。

それは私も同じ。誰もイエス・キリストのようにはなれない。

だから、静かに打ち返す波のように、生きていければ、それが一番の幸せだと思う。