ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

前向きに、元気に、パワフルに

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大学時代、西洋史学科に在籍し歴史学を研究していた。

しかし、そこで出会った学問には疑問があったし、当時のアカデミックなスタイルは、衒学的とでも言えるような、それこそ趣味的であるようなスタイルであった。

だから、実際のところ、そのような学問など学ぶ必要もないと思えたから、私は関心のあるもの以外、単位を落とさない程度に出席して、他のことに時間を当てていた。

 

もうしばらく待てば新しいスタイルの学問が出てくる前段階であった。

数年後、これが学問というものだという初々しい姿の芽があちこちで出始めてきた。

難しいことではない、学問などと堅苦しく言っているが、要するに頭でしっかり考えて、納得した筋道で論を立てていく。それを人真似でなく、自分の頭で考えていく。

そうすれば、その人独自の思考の軌跡が描かれて、魅力的な学問に繋がっていく。

 

私が学生時代に身につけた一番大きなことは、学問の内容ではなく、物事に当たるとき、物事を考えるときの姿勢だった。

自分の頭で、地に足をつけて普通に考えて行くこと。

 

このことと同時に、私は学問や物事ではなく、人に対するときの大切な姿勢も、朧げながら感じ取っていた。

それは、人と地に足をつけて真正面から向き合うこと、辛くても目をそらさずに人と向き合うこと。

しかし、こちらの方は、今でも辛い。人と向き合うのは本当に精神力がいる。だけど、それを乗り越えないと、その人と本当に向き合うことはできない。

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もう10年ほど前から、簡単に会社を辞めてしまう新入社員がクローズアップされている。現実を知らない若者が、それに耐えきれず辞めて行く。

やはり、教育の力が落ちて行っているのも原因だろうし、親の力不足も原因だろう。日本社会のパワーがなくなっている。

今は、次を担う世代を育てなければならないと思う。

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前向きに、元気に、パワフルに

どんなときも、ポジティブに生きること

これも誰もができる訳ではない。ならば、できる人がみんなを牽引して行く

倒れるまで引っ張って行けばいい

生かされつつ生きている

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西の方角に日が沈み、赤々と西陽が燃え咲き、我々は家路を急ぐ。1日の縛りを解かれて、強張っていた頬も笑顔に変わり、疲れのためか居眠りをする人もいる。

 

我々は生きているのか生かされているのか、自立しているのか自立していないのか。

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足は速い方だった。小学5年と6年の地区リレー大会で、大会新記録を出した。バトン渡しの極めて素早い練習をしたのだ。こんなバトン渡し誰もやったことがなかった。

 

中高でピッチャーをやっていた父親の影響で、小学生から野球をやっていた。バッティングは好きだった。ボールをよく見て打てば必ず当たるし、あとはバットコントロールを考えた。スポーツは考えてやれば上達するし、端から優秀な人に見てもらってアドバイスを受ければ、飛躍的にうまくなる。

 

 卓球、剣道、ラクビー、ボート、柔道、サッカーも、長いことやっていた。

今は、やっていないがアメフトに一番関心がある。ルールが変わっていて面白い。

 

勉強や仕事も、スポーツと通じるものがある。考えてやってみる。上達者からアドバイスをもらう。素直に自分の間違っているところや癖を直す。上手くなれば興味も湧く。

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今夏は鹿児島と熊本を巡ろうと思う。今朝起きて、決めて、ホテルも頼んだ。

桜島西南戦争西郷隆盛、幕末・維新、神風連、阿蘇山カルデラといったキーワードが浮かぶ。

 

日本列島はとても長い。北海道と九州とでは、文化もかなり異なる。どこにいても日本語は通じるけれど、細かな表現のニュアンスが違うので、住んだことのない土地に行くと、あれと思うこともある。

海外に出て、異国の地を訪ね、その新しさに触れることも魅力的だけれど、内なる日本に目を向ける方が、経済的で、こちらにも新しい発見が多々あると思う。

 

もっともっと日本列島を歩きたいと思う。

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先日、火星マーキュリーが最も地球に近づいたニュースが駆け巡った。深夜、かなり大きく火星が見えたと聞いた。

 

星のことを聞いていつも思うのは、月と女性、月と動物の関係である。月経という言葉もあるように、女性の体は月の引力に支配されている。動物の生と死もそう。人間の出産や死亡も、月の満ち欠けと因果関係がある。

私たちは何気に自分本位で生きているように錯覚しているが、月の満ち欠けに身体や感情が支配され、さらには他人の影響のもとに生きていることを考えてみれば、唯我独尊的な人はどこにもいないと言える。

 

自然や星や他人に身を任せつつ、自分をコントロールすること、そもそも私たちは他なるものとのコミュニケーションなしには生きられない存在なのだ。

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先日、職場のある人が退職した。今までに何度か失敗したことを気にしていて、迷惑をこれ以上かけたくないから辞めたいと言ってきた。

 

私からみれば、その程度の失敗ならば辞めるほどでもなく、それよりも頑張って続けて欲しいと思った。だけど、彼は辞めてしまった。何度か引き止めたけれど、彼は自分の判断で辞めた。それは彼の決めたことだから、それでいいと思った。

後日、彼から職場宛にお菓子と手紙が届いた。手紙には引き止めてくださってありがとうございました、とあった。たどたどしい文面と文字であったが、そこには私に伝えようとするひた向きな思いが感じられた。彼は不器用な人であったが、人に自分の思いを伝えたい、自分のことを分かって欲しいという魂の存在を感じた。

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私たちの表面・表情は、凸凹している。その表情に何を読み取るかは、必ずしも皆同じではない。表情の後ろに隠された真意も、正確に読み取れる訳ではない。

しかしながら、私たちが、自然や星や他人に身を任せて生きている存在であることを考えれば、まずは他人という存在を認めなければならないだろう。

 

私たちは神ではない。しかし、疑似的に神のように振る舞っている。

生かされつつ生きている、他律的でいつつ自立的である存在。

それが我々という存在の形象を隈取っている。

soliloquio 独り言

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近頃、頭を悩ますことがある。女性に言い寄られているのだ。

中学生の思春期頃から、私は女性に言い寄られることが何度かあり、それが自分はいつも辛かった。女性嫌いという訳ではない。綺麗な女性や可愛い女性に言い寄られても、苦手で、辛かった。

それは、言い寄ってくる女性というものに、浅ましさというのか、軽さというのか、そうした言葉で表現できそうな感覚を感じてしまい、言い寄る女性は一切シャットダウンしていた。

これは私の特質だと思うし、男性一般にどうなのかは分からないが、言い寄る女性に、とにかく生理的な拒絶反応を示した。

もう私も良い歳で、今更女性から言い寄られることはないと思っていたのだが、やはり今でも拒絶反応を示すことが分かったし、ダメージが結構来る。

 

私は、自分から女性にアプローチして付き合う形でないと、上手く行かないし納得できない体質なんだと思う。男性は一般的にこちらのタイプだと予想するのだが、実際はどうなのか分からない。

今は同じ職場に好きな人がいるのだが、なかなか上手くは行かない。一年の半分以上を海外で過ごし、残りを日本で過ごすという生活をしているのだが、帰ってきたなと思って、ホッとしていると当然何も起こらず、あっという間に時間は経過して、また外国へ行ってしまうということの繰り返しである。

でも、今回はなんとかしたいと思っている。

 

ここに書いたことで少し気持ちが楽になった。言い寄られたことを誰かに相談しようと思っても、相談できる人もいないし、学生の頃なら友達に話すこともできたのだが、今はそういう訳にも行かない。結局、自分で溜め込むしかない。これはまあまあしんどい。

平成の大きな事件、オウムの人たち

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オウム真理教幹部の残りの刑が執行された。

人ごととは思えない事件であり、決して刑が執行されたからといって、この事件が終わった訳ではない。

これから、ここから改めてこの事件が何を意味していたのかが、追究されていく必要がある。

彼らが目指したもの、決して人殺しをしたかった訳ではないだろう。一体何を目指してこうなってしまったのか。


春の歌/FM802 Accessキャンペーンソング!


春の歌

「春の歌」では、同じフレーズとメロディーを何人ものボーカルが歌う。

そこには、各ボーカルそれぞれの個性と想いが乗せられている。

私たちはこうなんだ、と思う。

生を受け、それを生きているが、人それぞれ全く異なった色彩を伴って歩いている。

私が知りたいのは、私が感じたいのは、そうした人それぞれの異なった、でも同じ姿。

優れた人がいるのではない、劣った人がいるのではない。色彩を異にする人がいるだけである。

 

オウムの人たちも、志があったに違いない。それぞれ悩みや想いを抱えて入信したに違いない。

大きな悲しみを伴う事件を起こしたからといって、彼らの全てを断罪して、罪人扱いするのは間違っている。

人を殺めてはいけない。

しかし、そこに至る人たちの生の有り様を理解することなく、結果だけで判断するのでは、何も問題は解決しない。

宇宙の無限、心の無限

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そこにたくさんの人がいて、あちらにたくさんの人がいて、街は社会は人で溢れている。そのどの人の声色も一つ一つ違うように、一つ一つの性格も異なる。

海を見たり、桟橋を見たり、鳥が川面近くを旋回して大空へと飛び立っていくのを見たりしても、人は皆異なった表情・反応を示す。もちろん、その反応をカテゴライズして、グループ分けすることはできる。なんの根拠もない血液型性格分類もそうだが、人の性格をいくつかに分けることはできる。

しかし、本人が何を考えているのか、本当のところは誰にも分からない。そして、それは本人にも分からない、と考えることもできる。

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暑さを避けて本屋も買い物も行かないでいたが、今日はぶらっと出かけて見た。

山鉾巡行は終わったとは言え、まだ祇園祭は終わっていない。巡行の熱気を冷ますかのように、街のあちこちに祇園祭期間の徴が見える。

本屋に行ってから、いつもは通らない五条方面へ向かった。

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高辻と松原通りの間くらいに、突如、因幡薬師なる寺が現れた。

五条方面は、なかなか行く機会がない。というか、四条に行けば事が済むので、それ以南には向かわない。

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京都らしい、町の中のお寺という風情である。

もう随分前に、バンコクことクルンテンプに仕事で滞在したことがあった。バンコクも京都に似ていて、街のあちこちにお寺がある。チャオプラヤ川の悠々とした流れを背にして、巨大で煌びやかな寺院があちらこちらに聳え立っていた。

夜に街中を徘徊してみたが、京都に似ていて、閉ざされた空間ではなく、お寺や屋台や子供達を通じて、地域の共同体が機能している印象を受けた。

古くから続く町では、伝統や習わしを通じて、今でも共同体という仲間同士の連帯が生きている。

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指紋と同じく、声紋も一人一人違う。

似た指紋・似た声紋・似た性格の人はいる。だけど、それを一緒くたにすると、判断を間違える。

マニュアルや作法は必要だが、それを元にして超えていかねばならない。

それが現実への一番の接近方法。法・作法は破るためにこそある。

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

 
宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

 

 数日前、グーグル検索画面にジョルジュ・ルメートルなる人物が掲載されていた。宇宙物理学者だ。彼は19世紀末に生まれ、20世紀前半を生きて、宇宙物理学者とカトリック司祭を兼任した。

彼の生涯を読んだあと、こういう生き方をした人もいるんだなあ、と思った。宇宙と宗教、どちらも果てし無い。素敵だなと思った。

中学生の頃、科学が好きで、Newtonという科学雑誌を購読していた。学校の理科はつまらなかったけれど、Newtonは最先端の宇宙に関する科学情報が掲載されており、よく分からないところも多々あったが、眺めているだけで楽しかった。

 (トリヴィアな情報だが、天文学者ハッブルは、スポーツ万能でボクサーとしても一流であった)

 

宇宙は無限だという。心も無限だという。外なる世界と内なる世界の無限。

Mr.Children覚書

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1988年12月、年の瀬を迎えた頃、4人のミュージシャンが渋谷のロイヤルホストに集まって、バンド名を考えていた。紙ナプキンに書かれたその名前は、そう「Mr.Children」だった。

1989年昭和64年が到来した。

昭和64年は7日しかなかった。激動の昭和が終わり、平成がスタートする。Mr.Childrenは平成とともに、その音楽をスタートさせた。

 

「くるみ」PVに見られるように、ミスチルの転回点の一つは2004年『シフクノオト』だ。

「くるみ」が「女性名くるみ」と「来未」いう二つの意味を併せ持ち、また、『シフクノオト』自体が、「至福の音」と「私服の音」という二つの意味を持つことを考えれば、世界に対する二つの構え、見た目の一般的な構えと同時に、その背後にあるもう一つの構えという二段の構え・二つの視線によって、世界を把握し始める。

 

私が掻い摘んでしか聞いていなかったミスチルの音楽を、真正面から聴き始めたのは『シフクノオト』からだった。

「タガタメ」「Any」「HERO」「Paddle」「くるみ」などの名曲が並び立ち、何度聴いても、新しい発見がある。

シフクノオト

シフクノオト

 

ここに描かれているのは、等身大の私たち。「私服」を着た私たち。身近な風景・心情を、詩的な言葉とメロディーに乗せて歌い上げる音楽だ。

等身大という点では、初期のミスチルから変化していないが、単調な恋愛ドラマのごとき歌詞から脱皮し、『深海』から深みのある音楽へと向かったミスチルは、『シフクノオト』に至って、自分たちが目指していた立ち位置を改めて自覚する。

そのことを示しているのが、「くるみ」のPVである。

Mr.ADULTSではなく、Mr.Childrenという、並立しない組み合わせの持つ意味。

[MV] Mr. Children _ くるみ (Kurumi) on Vimeo

 

 今や大御所となったミスチルだが、apbankなどを通じて、音楽仲間の連帯を強め、社会的な実践として音楽活動を行っている。


春の歌/FM802 Accessキャンペーンソング!

例えばFMキャンペーンソング「春の歌」は、出会いと別れの季節である春を歌い上げ、若い世代にメッセージを送る。

 

春風 木漏れ日 さくら舞い散る道

いくつもの出会いと別れ

握りしめて歩こう

未だ夢は消えず 掴んでもいない

一度は枯れた花でも また芽を出せるはず

遥か遠くに住む 君に届くように

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 私には、何か困難にぶつかった時、思い出し、参照する人がいる。高校時代の先輩である。彼は、どんな困難に遭遇しても必ずそれを乗り越えてきたし、そもそもスケールの大きなことを人の力によって成し遂げてしまう、とんでもない人であった。

そうしたことができるのは、今風に言えば、彼の卓越した人間力であった。

でも、もう彼はこの世にはいない。私は彼の衣鉢を少しでも受け継いで生きたいと思う。

 

Mr.Childrenの音楽は、ただ聞いていて気持ちいいというだけではない。私たち世代の心の襞に血液を流し込み、生きる力・生きる勇気を与えてくれる。彼らの音楽は血液のようなもの。

私が心の拠り所にしてきた人とはまた異なるが、 ミスチルの音楽も私の中に血液となって日々流れ続けている。

祇園囃子の響きはどこから聞こえてくるのか

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祇園祭宵山から帰ってくると、母親は真っ暗な土間の電気を点けた。真っ暗闇の中にぼんやりと辺りの輪郭が浮かび上がってきた。部屋の方にも薄っすらと明かりが届き、卓袱台や本棚が見えた。祇園祭の喧騒は夢のように搔き消え、音一つない空間に、雪駄のカタカタいう音が響いた。

 

京の町は祇園祭たけなわである。

町には観光客や外国人が犇いている。彼らにとって祇園祭は、まさに見世物であり、感情的に中立な位置から楽しめる娯楽に過ぎない。

しかし、京の町衆にとっての祇園祭は、また違ったニュアンスを帯びて現れてくる。祇園祭を通して見えてくるのは、出自と経済力と意識の問題である。ある地域に生まれたがゆえに、それに見合った経済力の元で成長し、その結果、その階層が抱えている意識を帯びてしまう。祇園祭は、そのことを意識に登らせる契機になる。

 

私の育った町は、祇園祭の鉾が通過するのを目撃できる町だった。だから、祇園祭に物心ついた頃から接触していて、季節の風物詩の一つであった。

祇園祭の山鉾、山と鉾だが、これらを管理している町内がある。いわゆる山鉾町である。長刀鉾町、蟷螂山町、船鉾町、鯉山町、役行者山町などがあり、四条室町辺りに固まっている。

 

詳細は省くが、京の町は階級社会である。それは、長い歴史を持つ京の町の宿命だ。ヨーロッパが階級社会であるのと同じだ。

東京も、徳川の世から続くが、果てしなく続く関東平野・流動的な人の流れ・大量の人口のおかげで、生きやすい街になっている。

京都と東京にしばらく住んでみれば、このことは実感できる。

 

祇園囃子の響きはどこから聞こえてくるのか。

これは、京の町衆のそれぞれによって異なってくる。私にとって祇園囃子は、京の町衆の格差を示す響きとなって聞こえてくる。夜の町に聳え立つ山鉾は、遠い過去の景色を消去させ、四条通りという富の集結場所を通して、豊かな側を表象している。

祇園囃子の響きは、歴史の風景をシャットダウンさせた現代において、人それぞれの階級というフィルターを通じて聞こえてくる。