ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

停止した時間の中で境界線を歩く

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今日も列車は運休が多い。

若き日々、長い間暮らしていた茨城県では、自動車かオートバイがないと生活できなかった。

電車が中心の生活は、東京に移り住むまであまりしたことがなかった。

子供の頃は自転車かバスだった。

 

滋賀県茨城県に似ていて、自動車がないと生活できないだろう。

水戸市土浦市つくば市牛久市など、茨城県のどの町にいても、首都圏へ繋がる常磐線つくばエクスプレスが走っているだけで、そもそも茨城県内での移動に電車は殆ど選択肢として入ってこない。

滋賀県はまだよく分からないのだが、大津市の中心あたりならまだしも、湖西線方面や琵琶湖線の石山以東になると、自動車がないと寂しい感じになってくる。

 

人は古より、一つの土地に住み着いてきた。移動しながらの民もいたが、定住という安定さを求めてきただろう。

遥かアフリカ発祥のホモ・サピエンスが、地球上に住み着くようになったのは驚きだが、移動と定住という葛藤の元に世界中に分散して行ったのだろうか。

 

豪雨によって移動手段がなくなって初めて、私たちは、長距離移動という日常的になった行動が、徐々に発達したメディアに支えられていることを実感するのである。

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雨の日は、自宅に籠って雨宿りである。

 

 バルトークの音楽は、19世紀から20世紀への越境的な位置にある。古典派のように知られていないので、聞いたことがないなと思ってしまうが、聞いていると、彼の音楽が新しい価値観を見つけようと探索している音楽だと分かる。

19世紀的なものからテイクオフしようとしている。


バルトーク・ベーラ「ピアノ協奏曲第3番」(1945)

これまでの形式を保ちながら、それを打ち破っていく力が漲っている。

このピアノ協奏曲第3番は、圧倒的な力に満ちている。

 

などと、音楽を流しながら、ひたすらmacに向かい、ひたすら書物に向かい、ひたすらノートに向かい、降りしきる雨の中、野良猫たちはどこに行ったんだろうと思ったりする。町の猫を撮影しようと思っているのだ。

フィレンツェ史 上 (ちくま学芸文庫)

フィレンツェ史 上 (ちくま学芸文庫)

 
フィレンツェ史 下 (ちくま学芸文庫)

フィレンツェ史 下 (ちくま学芸文庫)

 

 マキャヴェッリを少し読んだ。

マキャヴェッリは優れた社会分析家である。

フィレンツェという一時代勃興したイタリアの国家。ただの通史ではなく、うねり来る陰謀や戦争、権謀術数を事細かに描き分析して、国家が、社会が動いていく時の連続性・不連続性がどういった様相を呈するのかを教えてくれる。

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 abemaTVニュースを流したら、岡山県倉敷市が大変なことになっていた。この集中豪雨の爪痕は相当なものになっている。

火災保険では、大雨・台風による水害を補償している保険とそうではない保険がある。地震保険阪神大震災で知られるようになったが、入っていないと免責事項である。

火災保険だけでなく保険は、いざという時のものであるから、加入時はどうしたリスクがあるのかを十分に考えないで入る人がほとんどで、よくよく考えて加入すべきである。

建物が老朽化していて、そこに大雨水害で家屋が倒壊しても、新品に変えてくれたりしないので、勘違いしないで欲しい。あくまで、現状復帰のための損害部分のみの補償になる。

名探偵コナンは好きなのだが、もう随分、漫画もテレビも見ていない。 

最近発売の『安室透セレクション』では、黒ずくめの男バーボン=安室透が毛利小五郎に弟子入りするという、これまた新たな展開で、青山剛昌もなかなかのストーリーテラーだなと思う。

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何かを新たに創り出すということは、本当に骨が折れるし、精神的に大変な作業である。

私は文章を書くのは好きだし、音楽を作るのも好きだし、絵を書くのも好きであるけれど、自分の能力の範疇なら疲れないが、例えばこのブログなど、新しい創造をしようとして作業に入ると、これは大変な作業になるなと分かる。

まず、創ろうとする意志が必要だし、新しいものを創るための能力もいる。作家が長編を書き終えると、しばらくは何もできなくなると言うが、想像はできる。

編集作業はその点、創造の要素もあるが、オリジナルを求められる形ではないので精神的に楽である。

今日は、雨も降り続くし、絵を書いてみたり文章を書いてみたりしていた。

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一向に通り過ぎない前線を前に、時間は停止し、ニュースは災害関連ばかりだ。昭和天皇崩御したときも、テレビは自粛し、繰り返し同じ映像が流されていたと思う。

 

停止した時間の中で、生と死と、動と静の境界線を歩いている気持ちになる。

私たちは、またこの前線が去れば、日常生活に戻るだけだと分かっている。

オウムや終末論を唱える宗教が言うような、ハルマゲドンは訪れない。

だけど、終末を待ち望んでいる人、非日常を待ち望んでいる人、つまり社会に嫌気がさしている人は大勢いる。意識していない人も含めて大勢いる。

新興宗教にハマる人が増えているのもそれを裏付けている。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 

「ニューヨーク炭鉱の悲劇」で、大雨の日に動物園へ出かける男の話が出てくる。

彼はビールを買って、雨の日の動物園を訪れる。普段は、貿易会社に務めるサラリーマンであり、普通の至ってまともな青年である。 

ある年、僕の知り合いが相次いで死亡する。僕は雨の動物園好きの友人から喪服を度々借りる。

殺人事件の物語ではない。ただ、偶然、僕の知り合いが亡くなっただけである。

物語はただ淡々と死んだ人の経緯を描く。不思議な物語である。だけどそこには、何かしら生きていることの流れを感じさせる。死んだ人についての言葉が連なって行くが、感じられるのは、生はこんな感じだなあ、というものだ。

 

災害が起こり、多くの人が亡くなってしまった。だけど、それが日常であり、日常の裏にはいつも非日常が張り付いている。災害はそれを炙り出しただけなのだ。

私たちは、いつも生と死の境界線の上を歩いているのだ。

オオアメとオウム

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大雨に見舞われた京阪神地区は、昨日から降り続く雨の影響で、JRはほぼ全線操業を停止した。京の町は、それほどいつもと変わる気配でもなく、ただ大雨で観光客の出足は減り、地元の人たちは、あまり見たこともない鴨川の氾濫のごとき風景に釘付けになっていた。私もその一人だった。

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豪雨に驚いていたら、それを掻き消してしまうニュースが飛び込んできた。

オウム真理教麻原彰晃はじめ、幹部6人が刑に処されたというニュースだ。

LINEニュースで知った時は、信じられないと思った。

もちろん、彼らは日本では死刑に値する事件を起こしてしまった。だから、死刑となっても仕方がない。でも、この事件は、悪人が人を殺して死刑になりましたというレベルの事件ではなかった。

当時の、そして現在も、日本が抱えている闇を映し出した事件であり、日本社会が何者なのかを知ることのできる合わせ鏡のような事件であった。

虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 (ちくま新書)

虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 (ちくま新書)

 

 1995年事件当時、大澤真幸は「妄想の相互投射」という概念で、当時の社会状況を言い当てた。

要するに、オウムと私たちは、合わせ鏡のように相手のことを妄想しあっていて、その点で、お互い相手の現実の姿を理解してはいないのだ。

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増水した鴨川。

かつて三条河原は下手人の処刑場であった。

鴨川を見下ろす私の目に、遠い昔の散りゆく数多の処刑を待つ下手人の姿と、日本全国で処刑を待つオウム幹部たちの姿が、二重写しになった。

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上九一色村サティアンに潜んでいた麻原が警察に連行された時、茨城県のある街に偶然きていた私に、そのニュースを聞いたあるレストランのマスターが「狂った宗教もやっと捕まりましたね」と得意げに語ったのを、今でも忘れることができない。

 

そのマスターは、料理一筋の普通の一般人である。そうした人の言説の中に、「妄想の投射」はありありと浮かんでくる。私の父親にしてもそうだし、世間一般にそうである。

しかし、事の本質はそうではない。オウムを産んだのは私たちであり、私たちがオウム的だと言っても間違いではない。事件は社会を映し、社会は事件を通して、その真実の姿を現わす。

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1995年、阪神大震災地下鉄サリン事件が起こった。2018年、記録的な大雨とオウム幹部の死刑が起こった。

自然災害と事件は何の因果関係もないが、レイヤーの異なる出来事であれ、この世界にある出来事として、垂直には何らかの繋がりがあると言える。

それを、「自然災害は事件の隠喩だ」として処理することもできる。

 

しかし、大きな自然災害は死へと近接し、大事件も死へと近接する。この点で、世界の中の現象として死へと向かう出来事は、私たちに同値レベルの反応の触覚をもたらす。

 死という生々しい現実に、大災害や大事件は私たちを接触させるという点において、垂直的な連関があるのだ。

七夕、消え行く人、見送る人

 

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先日、大雨のため、琵琶湖線が運転を見合わせた。たまたま滋賀県に来ていたため、電車に乗れず、タクシーもいっぱいで、二駅ほど歩いた。

西武線では、時々、飛び込み事故があって列車がストップした。またかと思って、池袋で時間を潰すことがあった。

自然に対しても、事故に対しても、交通メディアは脆弱で、帰宅しようとすると、歩くことしか無くなる訳で、これが週末の出来事でよかったと思う。

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日曜日は、何かしようと思っても椅子に座ったままで、気がついたらうたた寝をしてしまい、漸く少し動き出せたのは夕方になってからだった。

京の町は、祇園祭の月に入った。暑い盛りの祭。梅雨ももうそろそろ明けてくれるのだろうか。あの人も、そろそろ外国へ戻ってしまうみたいだ。何とかしないといけない。

R.シュトラウス/ホルン協奏曲集

R.シュトラウス/ホルン協奏曲集

 

 夏になると、金管楽器ブラスバンドに想いが行く。

私は、特にフレンチホルンが好きだ。

ヘルマン・バウマン、バリー・タックウェル、デニス・ブレイン、ペーター・ダム、千葉馨、現在では、デボラ・バボラーク、シュテファン・ドールといった名手が、R.シュトラウスのホルン協奏曲を演奏した。

ホルンは、一番人間の声に近い楽器と言われる。そしてまた、木管のようでもあり金管のようでもある楽器である。

オーケストラやブラスバンドの楽器で、地味だが人気のある楽器ホルン。4オクターブに亘る音程を、バルブと倍音で操作する術は、短期間では習得できない。

 カルペンティエールの数々の名作は、日本ではそんなに読まれていないと思う。ラテンアメリカ文学の例に漏れない幻想と現実の入り混じる構成は、その物語世界に分け入る度に、現実の脆さを感じさせる。過去と現在、夢と現実が複雑に交差していく。

でも、この世界観はラテンアメリカ世界そのものである。そこに滞在し、流れ行く時に身を任せれば、軽やかに生きることができるんだと感じられる。

日本もまた独自の世界観を持つ国、社会の成り立ちは固有の色合いを示す。

 ウェアラブル製品が目白押しである。だけど、まだ必要性が感じられない。便利になる部分はある。でも、始終時計をはめているというのも、白ける。便利になるのに連れて、自由な空間が消えて行く。

未来空間はそれほど明るいものではない。上手に操作しないと、テクノロジーに乗っ取られてしまう。

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 昨日は、長い間聴いていなかったセカオワを流した。独特の音楽だと改めて思った。彼らの歌う曲には、生命や命というワードが通奏低音として流れている。私たちも、命を持った存在。だけど、命ということの実感は湧きにくい。今、まさに自分がそれであることには、鈍感だ。

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過去を引きずっているのではない。未来を見据えているのでもない。今を生きているのには違いないけれど、それほど真剣に生きている感じでもない。

一年に数ヶ月帰ってくる人を待って生きている。でも現実の大きなうねりの中で、否が応でもその日その日を生きていれば、そのうち現実に適応して、何とかやり過ごせるようになる。

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もうすぐ七夕。今年も、消え行く人を、見送ることになる。

ライサンダーとハーミアの夏の夜の夢

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ライサンダーとハーミア、オーベロンとティターニア、ディミトーリアスとヘレナの恋物語は、円満に解決を迎える。

妖精パックの媚薬に惑わされて、恋模様が混乱してしまうが、夏の夜の夢のごとく、3組の男女は上手く鞘に収まる。

 

K教授の英文学の夏休みのレポートに、シェークスピアの戯曲から二つ選んで分析せよという課題があった。

私は、マクベスと夏の夜の夢を選んだ。

暑い暑い夏の夜に、新潮文庫を広げて、何やらもっともらしいことを書いたと思う。

 

『夏の夜の夢』は、シェイクスピアの戯曲以上に名高い、メンデルスゾーンの音楽で広く知られている。結婚行進曲がその中の典型である。


メンデルスゾーン:真夏の夜の夢:結婚行進曲[ナクソス・クラシック・キュレーション #ゴージャス]

確か、映画『蒲田行進曲』でも使われていたが、この映画は、無理やり結婚させられる男女を描いた物語であった。

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今朝、空に鱗雲が浮かんでいた。

夏至も過ぎ、立秋まであとひと月くらい。昨年あたりも7月はじめに鱗雲を見た覚えがある。

暑いなと思い始めるのも束の間、すでに季節は、夏の懐に秋を準備している。

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現実と幻想、真実と嘘、現実と夢。

相対立しているように思える二項対立も、反転可能であり、現実が夢になり、夢が現実になる。

このことが、際立って明確に示されるのが恋愛だろう。

相手の心など、本当のところは確かめようがないし、何とも思っていない相手のことを突然好きになったり、お互いに相手を好きだと思っていても気がついたらそうではなくなったりする。

容易に、現実が夢になり、夢が現実になる。

さらに、これは恋愛だけではなく、この世のあらゆることが現実と夢の反転を引き起こす可能性に満ちている。

 

「何が現実か」など、判定できない。

日曜日の陽だまりの樹

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先日、仕事仲間で呑みに行った。

最初はビールと決まっているが、私はビールは飲まない。居酒屋でのビールは、あまり好きではないからだ。

職場のどうでもいいような話で盛り上がり、ちらほら本音も出て、それなりに飲み会の本分が素直に出た、カタルシスなカタルティックな場となった。

 

高層ビルの一部屋で、ベルギービールやドイツビールをゆっくり飲むなら、ビールもいいなと思う。

飲み会でビールを一気飲みしないのは、ベロベロに酔わされないように、私はあまり飲めませんとアピールする戦略だと思われがちである。

意図せぬ戦略ともなりうるが、私はただビールではなくて、他のお酒が飲みたいだけである。

まあ、好きなものをゆっくり飲み、味わうのが骨休めになるだろう。

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 今日は夕方、山科盆地を歩いてみた。山科駅前しか見ていなければ、どこにでもある平凡な駅のイメージだが、駅北や町の中を歩いてみると、やはり歴史のある町である、時間の堆積が感じられる。

昭和時代の建物、もう営業していない商店の古ぼけた入口、列車がごとごと音を立てて走っている側を、そそくさと荷物を抱えたおばあさんが通り過ぎて行く。

駅の北側には、神社やお寺が山の麓に佇んでいる。

山科疏水沿いに、ランニングコースを備えた遊歩道が続いている。鬱蒼と茂った木々の間から、夕暮れ近くの陽の光が差し込んでくる。

遠くの方には、醍醐山やそこから琵琶湖方面に続く山並みが見渡せる。

大石内蔵助も山科盆地で、今と変わらぬ風景の一部を目にしたことだろう。

 

京から発進する東海道は、幾多の歴史のうねりを乗り越えてきた。

だから、少し東海道を歩くと、言葉にならない霊感とともに、そこに残された強者たちの面影を感じることができる。

膳所駅に行った時も、少し街中を歩けば、ここが並々ならぬ歴史を背負ってきた町だということが分かる。

時の流れは、簡単には消せない。歴史の重みは幾十にも幾十にも積み重ねられて行く。

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閑話休題

お腹も空いてきたのですが、食べ物はなんでも食べられます。大食漢です。あまりにもたくさん食べるので、どこの職場にいても、驚かれます。だけど、食べるわりには太りません。

作るのも好きで、料理の本を買って、順番に作って、作れる料理のレパートリーを増やしていました。

自分で作って食べる場合、一番好きな料理はハンバーグ、オムレツ、とんかつ。

オムレツは、具に色々なものを組み合わせて作るのが面白い。一番好きな組み合わせは、シメジ・ホウレン草・チーズです。これは、やっぱり美味しい。

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遠き山に陽は落ちて。

夕方になってきたので、カラスも寝ぐらへ帰るみたいです。

日曜日なんて、あっという間に終わってしまう。

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 ちらほらとランナーが走り抜けて行った。

私も近頃は全くランニングもやらなくなった。スポーツもしていないし。水泳かスケボーか登山か、スポーツするなら一人でやりたい。

集団スポーツは嫌いじゃないけれど、本格的にやるのでなければやりたくない。

陽だまりの樹 コミック 文庫版 全8巻完結セット (小学館文庫)

陽だまりの樹 コミック 文庫版 全8巻完結セット (小学館文庫)

 

 『陽だまりの樹』。幕末を駆け抜けた人間たち。

私たちも今また、「歴史の第二の巨大な曲がり角」という、とてつもなくダイナミックな急カーブを曲がり続けている。

 

わたくしはこのでこぼこ凍ったみちをふみ

このでこぼこの雪をふみ

何かをやってはいけないのではない

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何のためにブログを書いているのか?

私は少なくともある人のために書いている。その人と関係のない内容であっても、その方が圧倒的に多いが、その人のために書いている。

その人が読んでいるかどうかは分からない。でも書いている。

勿論、文章を書くのが好きだから書いているという面はある。しかし、ただ文章を書くということはできない。文章はいつも誰かへ宛てたものである。

 

先日、仕事帰りに本屋に寄った。見田宗介の新刊が出たからだ。

見田先生も高齢で、もうそんなに書籍も出版されないだろう。寂しい限りである。

見田先生の数々の名作に影響を受けた人は多いと思う。

 コンパクトながら、内容の凝縮された新書で、未来へのイメージや示唆に満ちたものである。

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3月に東京へ行った時、何となく電車に乗って行った先は、葛飾区金町駅だった。

私は下町に長く住んでいたから、葛飾区・江戸川区江東区・足立区などに親近感があった。江戸時代から続く昔の街の残響が感じられて、東京でありながら、時間がどことなくゆったりと流れて行く感じが好きだった。

だから、自然に任せて辿り着いたのは、やはり下町だった。

金町も好きな町の一つである。何かがある訳ではない。だけど、そこには下町にしかないリズムがある。

江戸川の長く続く河川敷を越えると、すぐに千葉県に入り、常陸国へと続いて行く。駅前近くから長く一直線に伸びる柴又街道は、ずっと先の江戸川区まで伸びていて、この街道を一体何回通ったことだろう。

 

今いる町は生れ故郷とは言え、住んでいたのは、もうずっとずっと昔のことだ。

慣れてきたとは言え、どこか他人行儀な町というイメージが付きまとう。

私の故郷は、もう東京になってしまっているのだと思う。

遠い異国の地で、生涯を終えた人たちは、故郷への思いをどうやって断ち切ったのだろうか。

今いる場所で生きるしかない。それが現実というもの。100%満足して生きて行ける訳ではない。

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 オウム真理教に代表されるような新々宗教は、嘗て、胡散臭い集団という印象を免れなかった。

ものみの塔幸福の科学統一教会創価学会、なども、そうした印象があった。

私も、若い頃、こうしたいくつかの組織に接触したことがあったが、その中で活動している人の精神に違和感を感じた。

あれから何年も経ったが、現在も、周囲で新々宗教に所属している人に出会うことがある。

だけど、現在の印象は以前と随分違ってきた。

言わば、地域社会の延長で組織に参加しているという印象、創価学会が典型だが、お隣さんも入っているし、くらいの気楽なノリで参加している人が多いと感じる。

だから、やはり日本には宗教というものは根付きにくいのかなと思う。

 

宗教集団というのは、一種の革命組織と言える。この社会はおかしい、間違っている。だから宗教の力で革命を起こそう。宗教組織は反社会的であるのが、一般的である。

だから、地域社会の延長に宗教集団があるのなら、それは、日曜学校やサークル活動と変わりがない。

しかし、だからと言って、現在の新々宗教を否定している訳ではないし、そもそも宗教自体が革命的な力を装うものではなくなってしまった。

音楽・自動車・サッカー・演劇に惹かれる人と同じように、たまたま宗教に惹かれただけで、ただそれだけの話である。

私が学問や音楽や映画にこっぴどく惹かれるのと同じである。学問に惹かれるのが高尚な訳がない。

 

長崎に行って思ったのは、宗教が根付いている町というのも素敵だなということであった。

百花繚乱。どの花も咲き乱れたら、素敵なものである。

 

億の巨匠が並んで生れ

しかも互いに犯さない

 

他人を侵食しないことを条件にするのであれば、何かをやっていけないことはない。

することも、しないことも、ともに自由な世の中であれば、こんなに素晴らしいことはない。

宗教も、生きがいも、住処も、何を選択しても良い自由な社会。

大地震は、私たちを遠くへ連れて行く

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今月初め、中米グアテマラでフエゴ山噴火により、多くの犠牲者が出た。

グアテマラは火山大国で、古都アンティグアや新都グアテマラシティに滞在していると、地元の青年が火山見物はいかがですかと勧誘に来る。

火山爆発も多いし、地震も多い。街には至る所に、地震の爪痕が残されている。なかなか復旧できないのだ。

 

今朝、大阪北部で震度6地震があった。死者も出た。

仕事場にいた私は、大きめの揺れを感じて、珍しく大きいなと思ったが、予想以上に被害は甚大だった。

関東地方に住んでいると、地震は頻繁に起こるから、今日くらいの揺れだと大して驚かない。

でも、さすがに東北大震災の時は驚いた。道路を歩いていたのだが、急に道路が傾いたように大きく揺れて、転びそうになった。パチンコ屋やラーメン屋から、人が青ざめた顔で飛び出してきたのを見た。

nyan55.hatenablog.com

地震が起こると、あたかも目の前に大魔神が登場したように、私たちは為すすべもなく、地震に跪くことになる。

それは、避けることのできない出来事であり、目の前が大きく変化してしまうのを、ただ呆然と見つめているしかない。

親が亡くなった、大失恋をした、交通事故にあった、などの、その人を変えてしまうような出来事と同じくらいのインパクトが、大地震にはあると思う。

阪神大震災は戦争のようだったと、戦争体験者は語っていた。

地震は、地下からの攻撃によって街が崩壊し、焼け野原になる。まさに戦争だ。

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 大きな力の前に、人が死んで行き、抵抗する術もなく佇んでいる経験をしたならば、まやかしや格好付けではなく、自然と人は、確固とした何らかの決意を抱くようになるのではないか?

私が実際に経験した訳ではないから、本当のところは分からない。でも、想像するに、人が死んで行くのを堰き止めることもできず、ただ無力でいるしかなかったなら、その人はその無力さの反作用として、心や行動に変化が起こるのではないか。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 「UFOが釧路に降りる」で、主人公・小村の妻は、大震災のあと5日間、地震のニュースを見続けた後、忽然と姿を消した。

 

問題は、あなたが私に何も与えてくれないことです、と妻は書いていた。もっとはっきり言えば、あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつないことです。あなたは優しくて親切でハンサムだけれど、あなたとの生活は、空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいでした。

 

地震が起こらなかったら、小村の妻は、このことに気がつかなかったかもしれない。地震が彼女の無意識の扉を叩いたのだ。

そしてまた、小村も地震と妻の失踪をきっかけとして、遠くまで辿り着くことになる。

 

日常を非日常へと変える大地震

それはカタストロフィックな街の崩壊だけではない。

人を変える、人を非日常へと連れ出す。