ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

戦略と曖昧さの隙間を生きる

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あと1週間ほどでGWに突入する。

また、どこかに行こうかと思う。大分、富士山、紀州、金沢、舞鶴、倉敷など、候補はいくつかある。旅行熱がまた復活してきたみたいだ。

 

父親に連れられて、子供の頃から映画をよく見にいった。

邦画・洋画問わず、多くの作品を見た。

その中で、毎年必ず見に行く映画があった。お盆と正月映画の寅さんシリーズである。いつも二本立てであり、ドリフターズ映画や釣りバカ日誌などが並行して上演された。

このシリーズは、高度成長期からバブル崩壊期まで続いた、言わば戦後日本の豊かな時代と軌道を同じくした映画だった。

日本は総中流社会となり、どの人も皆、結婚し家庭を持てた時代だった。その中で1人、結婚できない男が寅さんだった。大ヒットしたこのシリーズに、観客は何を見ていたのだろうか。

私がこのシリーズの中で、今でもなぜか気になっている作品が、第30作である。

その舞台が大分県の湯平温泉・臼杵市杵築市であり、一度行って見たいとずっと思っていた。

 

富士山はなかなかその全貌を表さないし、GWの好天気に撮影したいと思ったりする。

紀州は、近そうで遠い国である。日本で最大の半島、紀伊半島は、最南部に行こうとすると、結構な時間がかかる。

金沢も一度行ってはいるのだが、サンダーバードで簡単に行けるし、もう少しゆっくり行って見たいなと思う。

舞鶴は、赤レンガ倉庫の撮影や舞鶴港への引き揚げ資料館など、海と港と戦後への関心から、倉敷も何度か行ってはいるが、臨海地帯の方へはまだ行っていない。

 

日本列島は、多くの都市の風景が似たり寄ったりになってきた感がある。しかし、それは、都市部や人が集まる地域だけであって、もっと丁寧に日本列島を見ていけば、その地方独自の風景がたくさん残っている。

日本の風景が同一化しているという言説自体が、一人歩きしている。

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高度成長期、寅さん映画の時代、人は猫も杓子も家庭を持った。

21世紀日本、人は様々な生き方を見つけ歩き出している。

非正社員、一人暮らし、一生独身など、ネガティブなイメージで語られるが、それは、結婚・家庭を持つということが標準・常識・幸せであるという前提に立って、その観点からの評価に過ぎない。

多様化してきた生活スタイルを持つ現代にあって、組み合わせは多種多様である。

結婚はしないが老後が1人で心配だという。しかし、ならば、家庭とは別の方法を考えたらいい。友達や近所や地域社会との密接な関わり。サークル活動や宗教活動への参加で、人の繋がりを広げることもできるだろう。

人はそれぞれ、自分の生きたい生き方を見つけ、それを生きるべきだと思う。

 

若い頃、千波湖近くで、自分はこの先ずっとこのまま我慢して、生きていかなければならないのかと思った時があった。

現況に対する鋭い分析、本当に自分は何がしたいのかという思い、それが本物でなければ、どの道も笑顔で歩むことはできない。

千波湖の水は深く、荒々しく、どうしたら前に進めるのかと思った。あれから何年も経過したけれど、今なら冷静にあの湖を眺めることができると思う。

 

何はともあれ、社会を世界を、まずはポジティブに見つめることが大切だと思う。

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 ある金融機関で働いていた頃、全国1位と2位の営業マンが在籍する部署に所属したことがあった。

その2人は営業方法が対照的であった。

1人はとにかく、朝会社に来たら一日中外回りをして、帰ってくる気配がない。もう1人は外出は一切せずに、ずっとデスクに座って電話をかけまくっている。

全国規模レベルでのツートップの営業成績は半端じゃなかった。だから、2人に共通することは、まず営業の数が並外れていたことだった。

つべこべ言わずに、ひたすら営業していた。数を当たらないと契約は取れない。

私は2人の方法をいつも観察していたし、時には一緒に外に出かけたりした。

電話派の営業マンは、電話応対のチャートを作っていた。こう言って来たらこう返す。次にこう切り返して来たら、こちらはこう切り返す、という風に、事細かく枝分かれしたチャートを敷いて、電話していた。

もう1人の外回り専門の営業マンは、数はこなしていたが闇雲に当たるという間抜けな方法は採用していなかった。何の情報もなく、一軒一軒回ったとしても、まず契約に結びつかない。営業は単に数ではない。情報に基づいたターゲットを数多く当たることである。

彼の武器の一つは、紹介であった。ある業種の人の契約を取ると、その同じ業種の人を潰しにかかる。例えば、歯医者さんから契約を取ると、その人の紹介から他の歯医者を紹介してもらったり、その業種が何を望んでいるかが分かるから、戦略が立てやすくなる。

また、彼は話術や勧誘技術を磨くために、仕事の合間に、ひたすらナンパをしていた。これも彼の仕事に直結していた。

 

ひたむきな努力は必要だが、戦略という拠点がなければ疲れるし、面白くない。優秀な営業マン、優秀な学者、優秀な医者、、、には、必ず明確なビジョンと戦略があるし、人を納得させる力がある。

 

とはいえ、正直言って、戦略やビジョンも必要だけれど、もう少しいい加減にやった方が、いざという時、柔軟に対応できると思う。

 

GWは、旅に読書に映画に音楽に、少しは仕事の方針も考えてやって行こうと思います。

また私には、他に一つやらなければいけない重要なことがあるのだけれど、それこそ、戦略と努力というよりも、あまり深く考えず行動した方が良い結果を生むのではないかと思う。

喰種を超える宗教の陥穽

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桜の時期もあっという間に終わってしまった。

今日、街中を歩いたら、桜の木はすっかり葉桜に変わっていた。

 

暖かくなる3月の終わり頃から、あの世の現し身のように、突然、桜は咲き誇る。

もしかしたら、この世以外の世界があるのかも知れない。

一瞬で咲き乱れて消えて行く桜の花は、あの世との繋がりを連想させる。

 

人間のような生物が人間を喰らうというテーマは、現在のサブカル領域ではお馴染みである。

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 1988年の『寄生獣』に始まる人間界に混じり人間を喰らう異性体の物語は、そのあと、『東京喰種』や、最近では、『約束のネバーランド』へと受け継がれている。

 人間が人間を喰らうというテーマが意味するところは、結局、生命体という観点から見れば、私たち人間もまた、食糧の一つに過ぎない、生存競争において喰われるリスクのある生命体に過ぎないということである。

 

考えて見れば、生命体の王様というだけで、数々の生命を奪って食事としている人間は、自分たちの都合のいい論理で生きているに過ぎない。

ならば、例えば、『約束のネバーランド』で、順番に食糧として出荷される子供たちは、牛や豚や鶏と変わらないし、牛たちにしてみれば、当然だろう。

こう考えると、人間社会は、エゴイズムに満ちた社会と言える。

 

こうした矛盾を乗り越える実践的な論理を見出すのは、難しいだろう。

そうならば、あの世を含めた、この社会を超えた世界を想定し、神を登場させて、この世の一切の矛盾を神の造形物として、一点に集約してしまう方法が考えられるだろう。

 

宗教は、突き詰めてみれば、矛盾に満ちた社会の前提を、神に収束させて、整合的にこの世の摂理を説明するところにある。

だから、どういった前提を引き受けるかで、数種のヴァージョンが存在し、いくつかの宗教が存在することになる。

 

現在存在している数々の新々宗教もまた、来世・あの世をどう考えるかが大きなメルクマールだろう。

オウム真理教にせよ、エホバの証人にせよ、統一教会にせよ、幸福の科学にせよ、来世の概念がキーワードであり、それは当然のことだろう。

私は、日本人の多くが、こうした新々宗教に批判的・異端的視線を浴びせること自体、日本的だと思うし、新々宗教が隆盛を迎えていることは良いことだと思う。

それは、社会・世界の自明性を疑い、隠蔽されている社会の非合理を明晰にし、論理的に乗り越える契機となるからだ。

 

けれど、私は、特定の宗教に帰属しようとは思わない。それは、ある形式と論理を持つ宗教に帰属することで、必ずその観点からしか世界を見れなくなってしまうから。

あくまで、どこにも帰属しないことによって、どこにも帰属できるようありたいと思うのが、私の戦略である。

 

しかし、例えば、ある宗教に帰属している人が気になり、恋愛感情を抱くようになった場合、どうしたらいいのだろうか?

自分の家族や親友が、ある宗教に入信していった場合、どうしたらいいのだろうか?

こうした一連の問題は、愛(恋愛、家族愛、友人愛)と信仰の問題として、人の人生に大きな岐路を出現させる。

現代にも、人と人を遮断してしまいそうな壁は至る所に潜んでいる。

光と闇の未来(長崎探訪記3)

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長崎、そこは教会の町、カトリックの町だった。

住民が全てカトリックというわけではない。おそらく、キリスト教徒はほんの少数だろう。

現在の日本は、非宗教的な国である。仏教があるといっても、信仰という名の元に宗教があるのではない。

しかし、イエズス会によってカトリックが日本に伝来した当時、日本のカトリック信仰は、文字通り信仰であったと思う。

なぜ自分たちだけが貧困や飢えに苦しむのか?

偶然、そこに産み落とされたという、自分たちにとって非自明な世界を生きる戦国時代の民衆にとって、心の拠り所となったキリスト教。 

 

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長崎から帰って、ブレードランナーを何年かぶりに観た。

嘗て観た時は、あまり細部まで理解できず、レプリカントの不気味さや近未来都市の雰囲気が印象に残っているくらいだった。

しかし、今回観たら、ストーリーや扱っているテーマ、さらに映像に強く惹きつけられた。

テーマは、人間と人造人間レプリカントが共存する社会をどう考えるかだ。

クローン技術、アンドロイド、レプリカント、AIといった領域に踏み込んでいくと、科学技術は哲学・神学・宗教と絡み合っていく。

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 今回、ブレードランナーを観たのは、勿論、その続編と言える「ブレードランナー2049」が昨年公開され、気になっていたからだ。

こちらも観たが、前作を継承していて興味深かった。

 

果たして、アンドロイド=レプリカントは、子孫を残すことができるのか?

ブレードランナー2049では、レプリカントの子供が登場する。

ブレードランナー2049」は、前作で明確に描かれていなかった生命・生と死といった神学的・宗教的な問題に大きく踏み込んでいる。

 

これまでとは自明でない前提が持ち込まれた世界では、動揺・不安・恐怖の感情が立ち上がり、その解消策として、信仰・宗教が呼び寄せられる。

変革期・新しい時代への変わり目には、宗教活動が盛んになる。

おそらく、ブレードランナーの舞台2049年でも、宗教的なものが勃興しているだろう。

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ブレードランナー」は、2019年の世界を描いていた。

そこでは、光と闇が交差し、昼も夜もない世界、そしてまた、レプリカントが大量生産され、生と死の境目が曖昧となった世界が描かれていた。

 

現在、2018年

ブレードランナー」が予言した世界と瓜二つではないが、現代世界は、生命操作が行われ、AIの登場によって、これまでの私たちが生きてきた世界から、少しずつ遠隔化している。 

死の世界・闇と夜の世界が一方にあり、一方に生の世界・光と昼の世界があるとは言えなくなってきた。

両者は、重なり合いつつ、新しい世界を生み出そうとしている。 

 

たまたま訪れた長崎で最も印象深かったのは、宗教と社会の接合。

ヨーロッパや南米に行くと、宗教の中に社会があるという印象を強く受けます。教会があちこちに見られ、宗教によって社会が守られている。

長崎は、ヨーロッパほどではないけれど、宗教的な空気が街を覆っている。

 

光と闇が交差する未来、生と死が交差する未来、その社会で、私たちは何を拠り所に生きて行くのだろうか?

宗教にせよ、地域社会にせよ、何らかの紐帯によって私たちは結びついて行かなければならないだろう。

旅は、忘却の遠い記憶を呼び覚ます(長崎探訪記2)

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長崎の旅の途中で、どうした訳か、突然バックストリート・ボーイズ「shape of my heart」を口ずさんでいた。

 

帰宅してから、ふと、そう言えば、さだまさしって長崎出身だったなと思った。

シングルレコード「雨やどり」のB面は「絵はがき坂」である。

「絵はがき坂」の舞台はオランダ坂の活水地区辺りである。

 

あなたはためらいがちに 何度も言いあぐねて

どうしてそんなこと ああ迷うのですか

ひとりで生きていける程 お互い大人じゃないし

それにしてもあなたの時計 ああ 進み過ぎました

 

ここに描かれているのは、男女のすれ違い・男女の行動原理の違いであり、さだまさしは男女の微妙な機微を鋭く、ユーモラスに切り取っている。

 

私にとってさだまさしは、クラシック音楽しか聞いていなかった小中の頃、唯一聞いていたポップス歌手だった。

マイナーメロディー・高音の歌声・日常を観察した詩のごとき歌詞といった他の歌手には見られない独自の世界を築き上げ、といって孤高の存在という雰囲気でもなく、その辺にいる話好きなお兄ちゃんという不思議な存在で、隠れさだファンはたくさんいたと思う。

 

子供の頃、話を聞くように傾聴していたさだまさしの音楽に、そのあと長い間、触れることがほとんどなかった。不思議といえば不思議である。

だけど、忘れていたさだまさしの音楽を、偶然の長崎行きで、思い出した。

 

さだまさしに先立って、バックストリート・ボーイズが意識に上り、「shape of my heart」を突然口ずさんでいたのは、次のような連鎖だと思う。

長崎旅行に旅立つ1週間前、その前哨戦のごとき東京旅行に行き、東京ドーム近くの水道橋に宿泊した。

東京で暮らしていた20年以上の間、仕事帰りの中央線や総武線で、水道橋駅から大量に乗り込んでくる東京ドームコンサート帰りの客の姿に、何度となく出くわした。

あるときは、Mr.Childrenであったり、SMAPであったりした。大学生ぐらいの男女三人組が乗り込んできて、ミスチルの「未来」に感動したという話し声を聞いたこともあった。

その中で、いつになく大勢の人が乗り込んできた時があった。溢れんばかりの人だかりで、一体どの歌手なのかと思ったのが、バックストリート・ボーイズだった。

東京・水道橋への旅によって意識下に醸成され始めたバックストリート・ボーイズの東京ドームでの記憶が、それに続く長崎への旅によって、一気に呼び覚まされ、「shape of my heart」を口ずさむことになったのだと思う。

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どちらが始発・終着はないだろうが、冒頭の写真は港に近い方のオランダ坂石標であり、上の写真は山の手方面のオランダ坂石標である。

 

それはまだ 私が神様を信じなかった頃

九月のとある木曜日に 雨が降りまして

こんな日に 素敵な彼が現れないかと

思ったところへ あなたが雨やどり

 

さだまさしの歌詞は、日常に普通に見られるさり気ない一コマを切り取って、そこに人の機微を見出す。

この「雨やどり」もそうだけれど、女性の視線から見た風景・心情が歌われていたり、社会の弱者や声を上げられない人々の声、また世界の不条理が、さだの歌には切り刻まれている。

 

人間て悲しいね だってみんなやさしい

それが傷つけあって かばいあって

 

旅は、未知の領域への着地という面だけでなく、既知の忘却された領域への着地という面も併せ持っている。

ロザリオとアトミックボム(長崎探訪記1)

 

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 新幹線、特急かもめを乗り継いで長崎市まで行ってきました。

長崎ちゃんぽん、坂の町、キリスト教、原爆。

今回の旅の動機は、長崎のこれらのキーワードには全く関係していませんでした。

九州のどこか。

小学生の時に一度家族旅行していましたが、長崎には何となく行ってみたいくらいの動機で出発しました。

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長崎市は独特の地形をしています。

到着してすぐに分かることは、近距離に山の斜面があり、その斜面に住宅が密集していること。

少し歩いてみると、いきなり坂道が登場して、これ登るの?と躊躇ってしまう。

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オランダ坂、祈念坂、相生地獄坂などの名称を持つ坂が、あちこちに構えている。

オランダ坂はどれですか?」と聞いてみたら、オランダ坂とは山手地区の石畳坂の総称とのこと。だから、この地区の何箇所かでオランダ坂の石標を見かけた。

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ゴミの収集業者も大変だろうと思う。

少し歩いただけで汗が出てくる。

でも健康にはいいだろうし、坂道は決して悪くはない。

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祈念坂の下の方に国宝・大浦天主堂がある。

修理中であったが、白壁の美しい教会である。

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夜はライトアップしている。10時頃だった。人気はなかった。

長崎の町は深い夜に向かって、数々の音を消滅させ、静寂へと至る。

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アトミックボム・ファットマンが爆弾投下機ボックスカーより投下された、その中心地。

現在は公園になっている。

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爆心地公園の下方を流れる下の川にかかる緑橋

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晴れ渡る空、遠くに平和祈念像

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浦上天主堂

浦上地区に原子爆弾は投下された。

 

キリスト教原子爆弾の、偶然の邂逅

夢を追う君へ 思い出して 躓いたなら

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東京駅丸の内口 聖なる天蓋


SEKAI NO OWARI「サザンカ」

ホテルのテレビで、平昌パラリンピックのニュースを見た。

 

嬉しいのに 涙が溢れるのは

君が歩んできた道のりを 知っているから

 

思い出して 躓いたなら

いつだって物語の主人公は 笑われる方だ

人を笑う方じゃないと 僕は思うんだよ

 

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 友人の結婚式があった。

 

久しぶりの東京だった。

 

東京が素敵なのではない。

私たちは、偶然、ある人と出会い、ある街で時を過ごし、一度限りの生を歩いている。

私たちは、無数の人の群れ、無数の時間と場所の中で、偶然、今この生を、ここで、この場所で、ある人と過ごしている。 

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大都会という幻想、大会社という幻想、、、そうした幻は、まさにまぼろしであること、そのことに誰もが気づいただろう。

 

私たちが歩まなければいけないのは、幻という道ではなく、誰しも等しく歩んでいる、自分の生そのもの、それがどういう中身であるのかを、自分がいちばんよく知っている、自分の生そのものである。

 

自分の生を全うしているなら、誰も笑わないし笑えない。

自分の生を歩んでいるなら、人を笑うこともない。

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二条城、徳川将軍家の誕生と終焉の地

f:id:jauma1th:20180304125339j:plain徳川時代の始まりと終わりの舞台になった二条城を撮影して来ました。

 

 

 

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まあ、綺麗かな。

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拡大写真

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門の反対側。図柄が違う。

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広いね。

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こちらも凝ってる。

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庭園に続く門。鐘が二つ見える。

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どうなんだろう?庭はよく分からん。

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 割と気に入った門構え。

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東山方面だろう?

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この蔵もいいね。

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終点近くの門。

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子供の頃から何度も目にして、毎日自転車で二条城の前を通過していたので、二条城は見慣れた光景でした。

だけど、中には入ったことがなかった。身近過ぎて入る気にならなかった。京都御所や多くの寺院にしてもそう。

 

歴史の表舞台から消え、観光地となった二条城。

中に入って感じたのは、権力は静寂なもの、ということ。 

幾十もの門に囲われた二条城の中枢である天守閣跡地からは、京の街並みや遠くの山々が見渡せた。

 

暖かくなってきたので、そろそろ外出して写真撮影の季節ですね!