長崎、そこは教会の町、カトリックの町だった。
住民が全てカトリックというわけではない。おそらく、キリスト教徒はほんの少数だろう。
現在の日本は、非宗教的な国である。仏教があるといっても、信仰という名の元に宗教があるのではない。
しかし、イエズス会によってカトリックが日本に伝来した当時、日本のカトリック信仰は、文字通り信仰であったと思う。
なぜ自分たちだけが貧困や飢えに苦しむのか?
偶然、そこに産み落とされたという、自分たちにとって非自明な世界を生きる戦国時代の民衆にとって、心の拠り所となったキリスト教。
長崎から帰って、ブレードランナーを何年かぶりに観た。
嘗て観た時は、あまり細部まで理解できず、レプリカントの不気味さや近未来都市の雰囲気が印象に残っているくらいだった。
しかし、今回観たら、ストーリーや扱っているテーマ、さらに映像に強く惹きつけられた。
テーマは、人間と人造人間レプリカントが共存する社会をどう考えるかだ。
クローン技術、アンドロイド、レプリカント、AIといった領域に踏み込んでいくと、科学技術は哲学・神学・宗教と絡み合っていく。
今回、ブレードランナーを観たのは、勿論、その続編と言える「ブレードランナー2049」が昨年公開され、気になっていたからだ。
こちらも観たが、前作を継承していて興味深かった。
果たして、アンドロイド=レプリカントは、子孫を残すことができるのか?
ブレードランナー2049では、レプリカントの子供が登場する。
「ブレードランナー2049」は、前作で明確に描かれていなかった生命・生と死といった神学的・宗教的な問題に大きく踏み込んでいる。
これまでとは自明でない前提が持ち込まれた世界では、動揺・不安・恐怖の感情が立ち上がり、その解消策として、信仰・宗教が呼び寄せられる。
変革期・新しい時代への変わり目には、宗教活動が盛んになる。
おそらく、ブレードランナーの舞台2049年でも、宗教的なものが勃興しているだろう。
「ブレードランナー」は、2019年の世界を描いていた。
そこでは、光と闇が交差し、昼も夜もない世界、そしてまた、レプリカントが大量生産され、生と死の境目が曖昧となった世界が描かれていた。
現在、2018年
「ブレードランナー」が予言した世界と瓜二つではないが、現代世界は、生命操作が行われ、AIの登場によって、これまでの私たちが生きてきた世界から、少しずつ遠隔化している。
死の世界・闇と夜の世界が一方にあり、一方に生の世界・光と昼の世界があるとは言えなくなってきた。
両者は、重なり合いつつ、新しい世界を生み出そうとしている。
たまたま訪れた長崎で最も印象深かったのは、宗教と社会の接合。
ヨーロッパや南米に行くと、宗教の中に社会があるという印象を強く受けます。教会があちこちに見られ、宗教によって社会が守られている。
長崎は、ヨーロッパほどではないけれど、宗教的な空気が街を覆っている。
光と闇が交差する未来、生と死が交差する未来、その社会で、私たちは何を拠り所に生きて行くのだろうか?
宗教にせよ、地域社会にせよ、何らかの紐帯によって私たちは結びついて行かなければならないだろう。