ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

オートバイ、その神の領域

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 先日、同僚の後輩に車で駅まで送ってもらった。

彼は最近、新しい車に乗り換えて、少しでも運転したくて仕方がない。

スポーツカーで、飛ばし屋専門の自動車に乗っている彼は、まだ20代前半の高校生のような風貌の青年である。

 

私も、ハイティーンから20代前半にかけて、オートバイや自動車に惹きつけられた時期があった。

私の場合は、最初オートバイだった。RZ250という飛ばし屋の2サイクルエンジンをしばらく乗り回していた。

銚子辺りの長く伸びる一本道で、時速180キロを体感した。もし転んだら、死んでしまうだろうなと思った。視界が極度に狭くなる。けれど、その普段体験できない究極の世界に触れることで、自分の中にもう一つの新しい領域を見つけたように思えた。

 

オートバイの世界選手権は、180キロどころではなく、もっと高速で、難しいコーナリングを疾走する、プロフェッショナルの競技である。

私がオートバイに乗り始めた頃、すでに引退してしまっていたが、伝説の日本人ライダー片山敬済の余韻が、世界選手権の世界には、まだ大きく残っていた。

彼は、まだオートバイの世界が日本で市民権を得る遥か以前に、単身でヨーロッパに渡り、世界選手権で優勝した。しかも、参戦から数年後には、世界選手権でチャンピオンの座に着くという前人未到の快挙を成し遂げた。

オートバイの世界は、日本ではどうしても、不良・暴走族のイメージが強く、反社会的なレッテルを貼られていた。

片山の活躍は、その反社会的イメージを刷新する嚆矢になった。

 

モータースポーツの世界も、れっきとしたスポーツの世界である。

そこでは、オートバイや車といったメカの性能を高めるために、メカニックが日々研鑽している。そして、そのメカと、ライダーというズバ抜けた運動神経の持ち主がシンクロして、高度な走行を繰り広げる。

実際に、オートバイや自動車を運転する人ならば、時速200キロのスピードでコースを疾走することが、神業であると直ちにわかると思う。

 

神の領域

人もまた、オートバイを駆ることで、その神の領域に接近することができる。

夕日が沈み、世界が廻り

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桟橋に夕日が沈み、辺りはやがて闇夜になり、灯台の火や港の街灯の明かりだけが、微かにここが水辺であることを知らせてくれる。

 

人の暮らしは、日々寄り添う人との幸せな循環を描くのに越したことはない。

 

今日も廻っているこの世界

君と明日も廻していこう

 

花や鳥や、いつも見慣れた景色も、新鮮な色彩を持って目の前に立ち現れてくる。

そのかけがえのない風景を、目の前を覆っている柔らかな空気を、大切にして歩き続けて欲しいと思います。

夢の中の僕は兵士、7人の敵を撃ち殺した

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「昨夜見た夢の中の僕は兵士

 敵に囲まれてた

 だから仕方なく7人の敵と吠える犬を撃ち殺して逃げた」

 

これは、Mr.Childrenの「Fantasy」に出てくる歌詞の一部である。

この歌は、現実と幻想・空想・Fantasyが交互に顔を出す歌詞進行で、上記の部分は、もちろん空想の部分である。

現実の中にFantasyを描いて生きていこうと標榜する隈取りで、ツマラナイ日常に風穴を開けて進んでいこうと宣言している様子だ。

 


Mr.Children fantasy

 

何となく聞いていたこの曲だけれど、毎回、夢の中の兵士のイメージが、痛く気になった。

人も犬も殺したくない。けれど、自分が生き延びるためには撃ち殺す以外にない。

 

三島由紀夫の『仮面の告白』の初めの方に、大蛇か何かに飲み込まれて殺されてしまう王子を空想する、主人公の描写があったけれど、敵に囲まれたり、大蛇に狙われたりした人物に対して、本人でない人たちの多くは、心の中ではおぞましい方の結末を望んでいるのではないだろうか?

 

Mr.Childrenの兵士の歌詞は、兵士となった僕本人の切羽詰まった情景が描かれていて、生死のルーレットを回さなければならない場面に出くわした人の行動が、臨場感を持って描かれていると思う。

 

この部分が、鬼気迫る臨場感で筆致されているのはどうしてなのだろうか?

 

おそらく、この部分には、空想・夢の中に、現実が紛れ込んでいるからだと思う。

人を殺したら赤い血が流れる。象を殺したら血が流れる。

7人の敵と吠える犬を撃ち殺したら、血が吹き出ただろう。

そして、その犠牲のおかげで、僕は逃げることができた。

 

空想と言えど、現実と交差する場面は多々ある。その場面で、現実に急接近する空想シーンは、死へと直結する場面だろう。

その生死の狭間の場面では、現実と空想が反転し、空想が恰も現実であるかのように錯覚してしまう。

夢の中で、ビルから落ちていくシーンに出くわしたことはないだろうか。その時、人は驚いて目を覚ます。

夢だったのかと、ホッとすると同時に、今見ていた夢は現実のようだったと感じるだろう。

 

空想は現実を構成する。そしてまた、現実は空想を構成する。 

空想も現実も、虚構も現実も、単に相反するのではなく、人が直面している世界の構成要素として、交わり、反発し、補強し合いながら、世界のありようを映し出している。

 

美味しいものを食べていたい

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土曜日夕方、ラーメンか、かた焼きそばか迷ったが、結局、両方食べて帰った。

しかも、2軒はしごした。

 

相変わらず週末の木屋町先斗町は、外人客や旅行者でごった返していた。

雰囲気を楽しむということだろうが、三条京阪から木屋町先斗町祇園へと続く辺りは、料理店も美味しいところとそうでないところが入り乱れていて、値段もそうだし、店の対応などもそうだけれど、予め調べてからが無難だと思う。

大阪だと、そんなに外しはなくて、大体何となく勘で入っても、美味しいお店が多いように思う。

 

関西は食べ物が美味しい。これは間違いない。

だけど、大阪が一番で、他は結構落ちると思う。

正直、関東の料理は美味しくない。もちろん、美味しいお店はたくさんあるけれど、文化として、関東の味は関西より大きく落ちる。

初めて、関東に引っ越して味噌汁を飲んだ時の、あのしょっぱさというか、大味なところ、何だこれはと思った。

 

味覚というのは、人によってまちまちのようだ。

この店は美味しいと言って、連れて言ってもらったのに、美味しくなかったりすることはある。

 

名古屋は、朝食の料理の量の多さもさることながら、名物と言われる料理も多々あって、味も結構美味しいのではと思う。

 

外国に関しても、中国はやっぱり、長期間にわたって世界一の大国として栄えた経緯もあって、料理はすこぶる美味しい。

 

安く、美味しく、手近に食べられるお店があれば、結構、暮らしやすいなと思う。

食はやっぱり、人間の一番の活力源だから。 

 

 

アメノヒニアルク

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今日は雨だった。湿度も少し高めだった。

帰りには雨は上がっていた。

 

昨日は珍しく、地下鉄が車両不良で止まってしまった。

西武池袋線は、週に3回ほど人身事故でダイヤが大きく乱れることがあった。

鉄道・地下鉄がないと、私たちは相当不便になってしまっている。

 

遠い国、ヨーロッパや南米にでも、飛行機を乗り継いで、2日もあれば移動できてしまう。

世界は遠いようで近く、近いようで遠い。

 

一番遠いのは、他人、それは自分も含めた他人かも知れない。

私たちは一番知っていると思っている自分自身のことを、それほど深く理解していないのではないか、と思う。

 

雨は私の同一性を脅かす。

雨という障害物が私に浸透し、いつもより穏やかではいられなくなる。

ザンザカザンと雨が降りしきり、私の輪郭がぼやけてくる。

ドイツ映画ポスター展

f:id:jauma1th:20170520111742j:plain先日、岡崎の国立美術館で開催のドイツ映画ポスター展に行った。

 

撮影禁止だったので、写真は撮れなかったが、一部屋だけのこじんまりした展示場だったけれど、アヴァンギャルド的な表現技法を駆使した、まさしくポスター!という感じのポスター群だった。

近頃は、こうした芸術風の映画ポスターも見られなくなった。

 

上の絵は、同じ階に展示されていた絵画。駅のホームのワンシーンが、戯画風に切り取られている。

 

岡崎には、芸術・文化の場があちこちに点在していて、少し歩くと平安神宮、少し歩くと美術館、コンサートホール、、、能の劇場、、、などと密集している。

 

東京だと、上野みたいな感じだろうか。文化の匂いが吹き抜けていく。

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一歩、裏道に入ると、昔ながらの京都の町の風景が目に入る。

白川が流れ、疎らに人が往来していく。

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川が流れているのではなく、水が流れている。

のどかな、のどかな、土曜日の午後

 

女性という生き方

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阿川佐和子が結婚した。63歳とのこと。

相手の人とはずっと付き合っていたそうだが、この歳になって結婚する心境とはどういうものだろうか。

 

阿川佐和子と似たふうに見做されている檀ふみは、今回の阿川さんのことをどう受け止めているのだろうか。

nyan55.hatenablog.com

 いくつかの性的嗜好があるなかで、基本は、異性と一緒にいたいと思っている人が大半だと思う。

それが一般的には、一番幸せな形だと思う。

 

私は、男性的な生き方よりも、女性的な生き方を、方向性として目指したいと思う。

それは、何も女性になるということではない。

抽象的に言えば、男性の時間ではなく、女性の時間を生きたいということ。

簡単に言えば、仕事主体の時間を生きるのではなく、個人主体の時間を生きるということ。もう少し肩の力を抜いて生きたいということである。

ここでは、便宜的に男性と女性という対で表現したけれど、女性の方が男性よりも様々な詰まらない体裁を少なくして生きていると思う。

 

前に書いたブログにも書いたけれど、檀さんは素敵な人である。

頭がいいというだけでなく、気配りや人に対しての絶えない笑顔など、素敵だと思う。

 

男性・女性という括りではなく、人としてまともな人と付き合い、私ももっとまともにやって行きたいと思います。