阪神大震災から23年が経過した。
ニュースを見るまで忘れていた。こんなに大きな出来事も月日が経てば忘れられていく。
大震災の日、私は東京の自宅にいて、テレビで震災を知った。
驚いたので、関西の実家に電話をした。
同じ日本と言っても500キロ以上も離れた土地のことで、もう一つこの国で大震災が起こったという実感が湧かなかった。
だけど、同じ1995年に起こった地下鉄サリン事件も、自分が良く使っている東京メトロでサリンがばら撒かれた映像を見ても、現実感がなかった。
当時の私は感受性が乏しかったのかもしれないが、人が地震によって死んでいく様を目の当たりにした訳ではないことも、現実味がないことの理由かもしれない。
とは言え、他人の痛みを自分のことのように感知できる人は、大地震によって人々が受けた苦しみを自分のことのように感じ取り、しばらくの間、正常に生活が送れなかったという。
23年後の今、新聞やネットで流される大震災の記事を読むと、心が震え、涙が出そうになる。肉親を失った人の辛さを綴った文章を読むと、自分のことのようにその悲しさや苦しみに向かい合うことになる。
どの人にも幸せでいて貰いたいと思う。苦しさや悲しさは人を強くする。でも、出来ることなら、そういうマイナス面に出会わず過ごしていくのが一番だと思う。
実際の大震災の赤裸々な姿というのは、ニュースで知った姿とはもっと違った形をしていると思う。
大震災の現場にしか地震の現実はないとも言える。
現実から離れた人が、実際に体験した人に急接近して、彼らの感情を汲み取ることができるだろうか。
優れた文学、感受性豊かな人、経験豊かな人は、被害者の心に急接近し、被害者以上にことの本質を捉えることができる。
地震の現実への想像力、人が直面している日常への想像力