下の最初の写真は、昨日東本願寺で撮影した標語である。だから仏教の、浄土真宗の標語である。
そのあとの写真は、ネットで見つけた街でよく見かける聖書の言葉である。
私には、今だに信仰というものの正体がよく分からない。
日本人の宗教への関わりは、信仰というよりも、地域、近所、家族が入っているからという理由だったりする。
この関わりは信仰ではない。
だから、周囲が他のことに関わっていたら、宗教ではなく、他のこと、例えば合唱サークルだったり、ゴルフクラブだったりするわけだ。
宗教も、合唱も、ゴルフも、周囲との付き合いという意味で、機能的に等価である。
ただ、比較的若い世代は、また異なった理由で宗教に吸引されている場合があるように思える。
日常生活を営む上で、誰しも意識してはいないが、何かを信じて生活している。例えば、電車に乗っても、一緒に乗っている乗客が襲ってきたりはしない、ということを信じて電車に乗っているなど。
そう考えれば、誰しも広い意味で宗教的、つまりは何らかの前提を信じて生活している。だから私たち自身、そもそも宗教的な存在でしかありえない。
ならば、宗教を信じることは、どういうことなのだろうか?
それは、私たちが信じている前提の究極の根拠が分からないがために、その根拠を示してくれるものに耳を傾けるということではないだろうか?
例えば、親を敬いなさいと言われる。けれど、どうして親を敬わなければならないのか、考えてみれば、その理由はよく分からないし、何とでも説明できる。
だから、ある宗教がこうした様々なことの根拠を包括的に・一貫して・論理的に示すことができれば、人はその宗教に吸引されるかもしれない。
詳しくは述べないが、主人公たちはクリスチャンである。
この作品は宗教が品のいい崇高なものではなく、俗世間と地続きのドロドロしたものであることを示唆する。
日本の新宗教や新新宗教、キリスト教や仏教を一瞥すると、例外的な宗教もあるが、品良く崇高に、内輪だけの活動を行なっているように思える。
それは、本来的な宗教じゃないんじゃないのか、と直感的に思う。
宗教とはもっとドロドロしたものと繋がりながら、それを理性の力によって抑え込むような力強さを持つものだと思う。