お盆休みに入った。
今日は、休み明け、スムーズにスタートが切れるように、やり残したこと・やるべきことを仕上げて、帰った。
連休はいつも、連休初日から、遠くへ旅行に出掛けることが多いが、今回は未定で、やりたいことは多々あるので、ひとまず骨休めしてから動こうと思う。
本棚に並んでいる書籍、ゲームソフト、パソコンに納められた映画・音楽、一眼レフカメラ、スケートボード、楽器、どれも、親密さ・経験の浅深の度合いはあれ、どのアイテムも自分にはなくてはならないもので、結局、連休中は、こうしたものに触れながら気がついたら終わっていたというのが、いつもの成り行きである。これに、旅行や友達と会ったりというのがつけ加わる感じである。
随分前にも書いたように思うのだが、私は、一旦何かにハマりだすと、そのことに没頭してしまい、周りが見えず、延々とやり続けて、気がついたら「あれ、一体ここはどこだ?」みたいな感覚で元の世界に戻ってくることがある。
ただ、こうしたことはいつでも起こるわけではなくて、自分の好きなことで、休暇中で時間や心にゆとりがあり、また、ハマろうとしてハマるわけではなく、本人の自覚なしで、気がついたらハマっていたという感じである。
これは、誰かを好きになったりするときと似ていると思う。
この人が好きだみたいにはならない。あれ、なんだかおかしいなと気付いた時には、その人のことが好きになっている、そんな感じに似ている。
現在、何かにハマりそうな予兆を感じる。仕事も片付いて、ホッとして、時間もたっぷりあるから。
これも、以前書いたと思うのだが、私はもうずっと長い間、太宰治の小説を読むことが出来なかった。
面白そうと思って読み始めても、その文章に我慢できず、必ず途中で放棄していた。
太宰の文章の稚拙さというか、読んだ時に伝わってくるオブラートに包まれていない感情とでも言うのか、何かこう、小説のようでいて日記のような文章、それがどうしても読み進める上でネックになり、放棄していた。
少しずつ読めるようになったキッカケは、太宰の墓を見に行ったことだった。
彼の墓は異様である。森林太郎の墓の斜め前にあり、そこには真っ黒な墓石に太宰治と書かれている。津島修治の名前ではなく。
太宰の遺言らしい。
この墓に、太宰の執着した事柄が象徴されていると思う。
太宰治の小説を読めるようになったのは、私にとって、大きな収穫の一つである。
そこには、私が求めながらも拒否してしまっていたもの、そうした精神のうねりがあり、太宰を読めるようになることで、実生活においても、それまで拒否していた様々な精神の流れを、受け入れることができるようになったと思う。
人は、そこに見える人物像という形象だけで成立しているのではない。というより、むしろ、見た目の背後に流れている、精神とか心と呼ばれているもの、そこに人としての大きなウェイトがある。