月を見かけると、ここが地球という星であることが思い出される。
太平洋に行って、海岸沿いに立ち、遠くまで果てしなく続く水のざわめきを感じ取ると、この国が島国であることが思い出される。
普段は、星や島といった孤立した場所に自分たちがいることを、肌で感じることはない。
外国に行くと、私たちが日本という国に住んでいることが、当たり前ではないことに思えてしまう。世界には実に多様な国が犇いていて、たまたま自分は日本に住んでいる感じがする。
すぐに行ける訳でもないのだが、イスタンブールの旅行ガイドを買った。何か一つ旅行ガイドがあれば、結構楽しめる。
イスタンブール、嘗てのビザンティオン、コンスタンティノープルには、古代から続いた波乱万丈の歴史がある。
卒業旅行だか、新婚旅行だかで、イスタンブールに行った友人がいた。彼もまた、オスマン帝国時代のイスタンブールの面影に憧れて行ったのだ、と語っていた。
西洋の歴史を研究する場合、その一つとして、ローマ帝国・キリスト教・聖書・フランス革命といった西洋そのものズバリを研究するパターンと、西洋に影響を与えた非西洋を介して研究するパターンという対比があると思うが、オスマン帝国は後者の最たるものだと思う。
オスマンを始めとするイスラーム諸国がなければ、西洋は今とは全く異なった様相を呈したに違いない。
『<世界史>の哲学』最新刊が発売された。
社会学・歴史学に関心がある人ぐらいしか、読んだりしないだろうが、このシリーズは、岩明均『ヒストリエ』を読んでいる時のようなワクワク感があり、世界史上の数々の根本的な疑問に真正面から取り組んで、納得のいく解答がこれまでの巻で提出されている。
本巻の近世篇では、そもそも近世という段階を設定することの理由として、中世から近代へと向かう歴史を一気に説明することはできず、中世と近代の間に、近世という段階を設定しなければ、十分な説明ができないからだとしている。
ミシェル・フーコーが中世と近代の間に古典主義時代という時代を設定したのも、中世と近代は直接には連続しておらず、間に古典主義時代を置くことで初めてスムーズな連続性を持った説明が可能となるからだ、という。
こうした説明だけで、長年もうひとつ明瞭に掴みにくかったフーコーの古典主義時代の位置付けがスッキリした。
いつかそのうち、ウラジオストークからシベリア鉄道に乗ってモスクワまで行き、そこからさらに列車に乗って東欧諸国を抜けてイスタンブールまで辿り着き、さらにオリエント急行に乗ってヨーロッパへ向かいたいなと思います。
私の外国への憧れの中心は、やはり今でも基本的に西洋というものにあるんだなと思います。