ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

遥かなるまわり道の向こうで

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幸せとは、なんだろうか?

 

それは、人間に特有の贅沢な感情の一つ。

楽だ、楽しい、面白い、嬉しい、ワクワクする、、、こうした感情を抱いた時、幸せな瞬間を体験しているとも言える。

 

だけど、私の感覚としては、幸せというのは、もう少し持続した時間における体験である。

彼女ができて幸せだとか、結婚して幸せだとか、子供ができて幸せだとか、人との関係性で、自分の生の根幹に大きく影響するような関係性が生まれて持続している時、人は幸せという言葉を、納得して使うことができると思う。

 

遥かなるまわり道の向こうで、困難に出会い、幸せとはほど遠い生き方をしていたとしても、それが、未来の幸せに連なるとは限らない。

幸せとは自分で探し見つけていくもので、いつか自分にも幸せな時が来ると漠然と構えている人には、生涯、幸せなど訪れない。

 

草食系という言葉が言われて久しいけれど、果敢に何かに挑戦していこうとする男性を見かける頻度が落ちたように思う。

漠然とした感覚に過ぎないのだけれど、他を蹴落としても上に登ろうとする意志がある人や、他の人に負けたくないという根性を持った人に出会わなくなったように思う。

ただ流されるがままに生きている人や、ひっそりと人知れず生きている人が多いなと感じる。

 

私も決して、普段、果敢で勇敢な人間ではない。だから、ひっそりと生きたい人の気持ちも分かるし、そういうのも良いなあと思う。

だけど、幸せという言葉を実感したいなら、ここぞという時には頑張って本気で事にぶつからないと、後悔する事になる。

私は幸せという事に関しては、人一倍貪欲であると思う。決して、幸せを手に入れることが人生の目標ではないのかも知れないが、それは多くの人によって共有された願望の一つであることは確かだ。

 

遥かなるまわり道の向こうであれ、どこであれ、闘い方は変わらない。

 

 

今度君に会ったら

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また、外国へ戻ってしまうの?

アリアドネの麻の菜は、また忽然と消えてしまったみたいだ。

 

今回、帰国してから、仕事を言い訳にして、何も言えなかった。

何を言えば、どう言えば、考えていたけれど、言えなかった。

迷惑になるかもしれないし、私自身、言うのが怖かった。

言いたいこと、話したいことはたくさんあるんだよ。

 

いつ帰ってしまうのか、分かっていても、何も新しいことは出来なかったと思う。

 

だけど、一番の原因は、自分自身がどうしたいのか、本当はどうしたいのかが、決められていなかったからだと思う。

でも、本当は心の中では決まってるんだ、どうしたいか。

機が熟していないんだと思う。

もうしばらく待つしかない。考えて動いて、考えて動いて。

あなたの方も、色々なことを考えていると思う。

私が何か言って来るのを待っていたように思えた。

 

ラテンアメリカの首府の、植民地時代の遺物である市庁舎から、階下の広場を見下ろしたことがあった。

その時の光景が浮かんできた。どうしてなのか分からない。

 

前に言ったこと、書いたこと、それは今でも全く変わっていない。

マタイ伝の言葉を最後に書いたのも、あなたの真似をしながらも、マタイのその言葉に、自分の思いを託したかった。

あなたに、私の言いたいことは伝わっていると思う。

今度帰って来るまでに、力をつけておくよ。自分にもあなたにも負けないように。

あなたのことは、私の力で何とかする。

 

だから、今度帰ってきたら話すよ。

もう何処かに行ってほしくないんだよ。

帰って来るの待ってるから。

 

東京か瀬戸内か南米か、あと数年したら一緒に行かないか。

 

連絡できるなら連絡してほしい。


今度君に会ったら 

async、非同期のなせる同期

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坂本龍一の最新作『async』とは、非同期という意味である。

asynchronization、非同期。シンクロしない。波長が合わない。非同時、非同調、非協調性。

 

しかしながら、この音楽は非同期だから、環境とシンクロしないのではない。

非同期だからこそ、どんな環境とも同期してしまう。

 

言ってみれば、同期するということは、少数の何物かとシンクロしているということである。

だから、そのシンクロしている少数の何物か以外の外部の環境とは、シンクロしていないということである。

 

反対に、非同期ということは、何物ともシンクロしていないからこそ、どんなものともシンクロしてしまう。

 

実際、この音楽を聴きながら街を歩いてみれば、不思議なくらい街の音に音楽が溶け込んでいくのが分かる。心地いい。

 

全編に渉って、ピアノやシンセサイザーや街の音、人の声、何の音だろう?不思議な音も流れて来る、、、様々な音が重層的に途切れなく時を刻んでいく。

その音の流れに耳を傾け、身体を預ければ、この上ない至高の音の空気を、感じ取ることができるだろう。

nyan55.hatenablog.com

以前書いた文章で、坂本龍一に触れた部分がありました。

貼り付けておきます。

バベルの塔、ブリューゲルの壮大な遺産

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東京・上野で、ブリューゲルバベルの塔』展が開催されている。

壮大な構図、圧倒的な迫力で、見るものの息を止まらせる。

大阪にも来るらしい。行ってみようと思う。

babel2017.jp

 

ブリューゲルは16世紀中葉のオランダを生きた画家だ。

農民画家と呼ばれた彼には、有名な作品がいくつかある。

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当時のオランダ農民の生活を描いた貴重な資料だ。

 

こうした一連の農民ものと重なりつつ、ブリューゲルは聖書や神話に纏わる作品を描いた。

その最たるものが、今回来日の『バベルの塔』だろう。

バベルの塔を作って天に届こうとする高慢な人間どもに、異なる言語を与えて散々バラバラにしてしまった言い伝えがあるバベルの塔

 バビル二世というバビルの塔が登場する漫画・アニメがあったが、この物語もまた、善と悪の戦いを描いた現代版聖書・神話のエピソードの一つと言えなくもない。

 

バベルの塔』展の副題に「ボスを超えて」とあるように、同郷のネーデルラントの画家の遺産を継いだ画家ブリューゲル

その謎の多い生涯において、ブリューゲルは何を考え、何を見て生きていたのか?彼はどうして画家になったのか?

それは、彼の作品を通じてしか回答できないものかもしれない。

 

ボイマンス美術館はオランダロッテルダムにある巨大な美術館

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www.boijmans.nl

オランダにも行こう行こうと思って、かなりの年数が経つ。

アムステルダムにオランダ人の友人がいて、以前旅先で知り合って、毎晩飲み明かしていた。ヨーロッパ人にとって、日本を含むアジアに対する関心の中に、仏教が登場することが多い。

彼もまた、ひたすら私に仏教について聞いてきた。日本人が宗教にあまり関心がないのと違って、宗教戦争の跡地であるヨーロッパは、今でも宗教は重要な関心ごとだと思う。

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因みに、ブリューゲルが描いたバベルの塔はもう一つある。

こちらはウィーンにある。

 

私のルーティーンな楽しみ

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昨日は夕方に書店に行って帰った。

クリストファー・ノーランの嘘  思想で読む映画論

クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論

 

 クリストファー・ノーランの映画論が出ていた。

著者も訳者も、私は知らないのだが、買ってみた。

スラヴォイ・ジジェク張りの精神分析系の映画論のようだが、ノーランを扱っているところが新鮮だと思えた。

キューブリック亡き後の映画界で、ポストキューブリックを担える次世代としては、クリストファー・ノーランデヴィッド・フィンチャーだと思う。

スガシカオが著作を出していた。

スガシカオはその歌詞の独自性で、一般的なポップスの歌詞とは異なり、文学的なもの詩的なものの領域に覆いかぶさっている。 

彼は実際、文学方面から大きく影響を受けていて、それが歌詞の独自性にもつながっている。

たった1日で即戦力になるExcelの教科書

たった1日で即戦力になるExcelの教科書

 

今さら、エクセルの書籍かよと思うのだが、私自身、昔は日々使っていたエクセルも、しばらく使っておらず、最近になってまた仕事で使っているので、興味があって買った。

確かにエクセルは、その使い方によって効率が大きく違ってくる。ある重要な機能を知っていなかったために、無駄な時間を費やすことがある。

 

書店から出て、ラーメン屋と王将に行った。

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王将は、メニュー自体は同じなのだが、出てくる料理は店によって大きく異なる。

上の写真は、いわゆるかた焼きそばなのだが、王将では揚げそばという名前だが、京都の3つのお店で食べてみたが、全部量と中身が違っていた。

昨日行ったお店が一番量が多い。これで、消費税込みで693円くらいなので、お得だと思う。欲を言えば、見た目に赤色がないので、もう少し赤を加えて彩り豊かにして頂けたらなと思う。

 

今思い出したのだが、東京の赤坂と溜池山王近くに、長崎ちゃんぽんの絶品の店があって、昼休みによく行っていた。

行列が出来ていて、でも並んで食べる価値があるほど量もあって、美味しかった。

 

長崎ちゃんぽんと言えば、子供の頃、長崎に行った時に長崎駅前で食べたのが、とても美味しかった。

 どうも私は、長崎ちゃんぽんとか、かた焼きそばとか、そういった料理が好きみたいだ。

 

今日は、昼から写真散歩でもしようかなと思います。

少しだけ似た他人

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少しだけ似た他人。

どこか似ているけれど別人。

世界には自分とそっくりな人が3人はいるという伝説。

私も、写真などで自分とどこか似ているという人を2人ほど見た覚えがある。

 

自分と似ているのは両親や兄弟姉妹であったりする。

当然といえば当然だけれど、全く似ていない兄弟もいる。

 

似ているって、目の前に自分みたいな人がいるという感覚。

不思議な感覚。

親しみやすいけれど、この人は自分と同じではない、考えていることも違う。

 

人間って、本当に不思議な生き物。

頭脳が発達しているおかげで、微妙な感覚を携えている。

それらは、本当は幻影なのだろうけれど、そうした幻の感覚の中を生きている。

 

でも、幻であっても、その生を生きるのは楽しく面白い。

だから、幻であることを自覚しつつも、現実だと看做して生きれば、多くの辛いことも寂しいことも楽しいことも悲しいことも、冷静に、かつ臨場感を持って生きられる。

 

若い人たちには、死ぬなよって言いたい。

死ぬことなんて何もない。

よく考えてみな。幻影は幻影なんだから。そんなもの跳ね返せばいい。立ち向かって戦えば、幻影なんて吹っ飛ぶ。

 

少しだけ似た他人

そうした他人がいるという伝説こそ、この世界が鏡の中の幻の世界であるという切っ先を、示しているように思う。

オートバイ、その神の領域

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 先日、同僚の後輩に車で駅まで送ってもらった。

彼は最近、新しい車に乗り換えて、少しでも運転したくて仕方がない。

スポーツカーで、飛ばし屋専門の自動車に乗っている彼は、まだ20代前半の高校生のような風貌の青年である。

 

私も、ハイティーンから20代前半にかけて、オートバイや自動車に惹きつけられた時期があった。

私の場合は、最初オートバイだった。RZ250という飛ばし屋の2サイクルエンジンをしばらく乗り回していた。

銚子辺りの長く伸びる一本道で、時速180キロを体感した。もし転んだら、死んでしまうだろうなと思った。視界が極度に狭くなる。けれど、その普段体験できない究極の世界に触れることで、自分の中にもう一つの新しい領域を見つけたように思えた。

 

オートバイの世界選手権は、180キロどころではなく、もっと高速で、難しいコーナリングを疾走する、プロフェッショナルの競技である。

私がオートバイに乗り始めた頃、すでに引退してしまっていたが、伝説の日本人ライダー片山敬済の余韻が、世界選手権の世界には、まだ大きく残っていた。

彼は、まだオートバイの世界が日本で市民権を得る遥か以前に、単身でヨーロッパに渡り、世界選手権で優勝した。しかも、参戦から数年後には、世界選手権でチャンピオンの座に着くという前人未到の快挙を成し遂げた。

オートバイの世界は、日本ではどうしても、不良・暴走族のイメージが強く、反社会的なレッテルを貼られていた。

片山の活躍は、その反社会的イメージを刷新する嚆矢になった。

 

モータースポーツの世界も、れっきとしたスポーツの世界である。

そこでは、オートバイや車といったメカの性能を高めるために、メカニックが日々研鑽している。そして、そのメカと、ライダーというズバ抜けた運動神経の持ち主がシンクロして、高度な走行を繰り広げる。

実際に、オートバイや自動車を運転する人ならば、時速200キロのスピードでコースを疾走することが、神業であると直ちにわかると思う。

 

神の領域

人もまた、オートバイを駆ることで、その神の領域に接近することができる。