私は、どんなジャンルの音楽も好きである。
クラシック・ジャズ・洋楽・JPOP・民族音楽など、気に入ったものは聞いている。
もちろん、すべての曲を聴けるわけではないし、好きな曲が見つかれば繰り返し同じものを聞くから、新しい曲に出会えるのは先になる。でも、できるだけ色々な曲を聴きたいというのが希望である。
音楽ならなんでも好きだというところは、小学校時代と高校時代に出会った音楽の先生の影響が大きい。もっと言えば、その二人の先生の一言が、垣根なく音楽を聴く態度へと導いてくれたように思う。
小学校時代の先生は、当時流行っていたある歌謡曲のグループのボーカルの真似をして、この高音の歌声は素晴らしいと言った。
私はそれまで、音楽の先生は教科書の音楽やクラシックだけを聴きなさいというタイプの頭の固い先生のイメージがあったけれど、その音楽の先生は、学校音楽から外れるタイプの歌謡曲を、堂々とすばらしいと褒め称えたことに、とても驚いた。
そうか、自分がいいと思ったものを聴けば良いんだと思った。
高校時代の音楽の先生は、とても高齢の先生で、いつもクラシック系の音楽を聞かせるタイプの先生だった。
けれど、卒業前の最後の授業で私たちに聞かせたのは、なんとビートルズのアルバムであった。
そして聴き終わった後、先生が言った言葉は、「ビートルズは現代のシューベルトです」というものだった。
私はその一言にとても驚いたし、やはりここでも私が受け取ったのは、素晴らしいものは分け隔てなく聴きなさいというメッセージだった。
この二人の先生から受け取ったメッセージは、音楽だけでなく、文学・映画・美術などどんなジャンルにでも適用可能である。
偏見なく、自分の目と耳と頭で感じ取ること。これはとても大切な態度だと思う。
私自身、音楽をやっていたので、その後出会った音楽好きたちは、みんな私と同じように、音楽「自体」を好きな人ばかりだった。
そうか、みんな「音楽というもの」が好きだから音楽をしているんだ、と思った。
これとは反対に、大学時代に読んだ対談集の中で、坂本龍一が「歌謡曲は全て演歌です。私にとって音楽とは、歌詞ではなく音なんです」という意味の発言をしているのを読んで、驚いた。
確かに、曲に詩をつけることで、その曲は歌詞内容の色に染まる。悲しい歌詞、嬉しい歌詞、寂しい歌詞。
坂本龍一が言おうとしたのは、音楽においては、そうした感情の色彩は言葉ではなく、音で表現すべきだ、ということだと思う。
言葉で表現してしまえば、文学や詩になってしまう。そうではなく、音楽としての独自性は、音自体で世界を表現することである。そういう意味合いのことを坂本龍一は言おうとしたのだと思う。
でも、坂本龍一の凄いところは、歌謡曲が世間的に影響力をもち、そのことを十分に受け入れた上で、自分の音楽観を述べているところである。
間違いやすいところだが、彼は歌謡曲を否定しているわけではない。その存在意義は認めた上で、音楽という芸術の存在意義を述べているのである。
Ryuichi Sakamoto (坂本龍一) - Merry Christmas, Mr. Lawrence