ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

切れ目のない日常の中で

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村上春樹の新作『騎士団長殺し』を少し読んでみた。

一瞥したところ、村上の初期から続くテーマ、特に『ねじまき鳥クロニクル』以降のテーマ、作品構成を集大成してアレンジした小説のように思えた。

 

妻がいなくなる。芸術家が登場する。主人公に名前がない。モーツアルト等々。

 

『ねじまき鳥』もそうだが、村上の小説では、妻・恋人が去ってしまう男性が度々登場する。『女のいない男たち』という短編集も発売されたけれど、村上にとっての小説は、嘗て一緒にいた女性が男性の元を去り、一人になった男性を巡るストーリーにあるように思う。

そして、重要だと思えるのは、村上の小説が、一人になった男性が可哀想だとか、哀れだとか、そうした感情を描いているものではないというところである。日本的な小説の定番として、独身男性の惨めさを描くのではなく、あくまで、一人になった男性の状況を描き、彼の行動を事細かに描く。

女性に去られた男性という形象は、現代都市で常態化している状況の一つを、抽象的に表現したものではないのかなと思う。

 

切れ目のない日常の中で、私たちはどこから来てどこへいくのだろうか。

駅が、電車が通り過ぎていく

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グーグルだったか、flickrだったか、駅のホームを撮って掲載している人がいました。

松本清張『点と線』は、駅の列車のすれ違い数分を使ってトリックを仕掛けた作品。

 

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 上の3枚は名古屋駅中央線ホーム。貨物列車が通り過ぎていく。

列車に乗ると、駅が通り過ぎていく。

金山駅前の土曜日の午後

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今朝は起きるのが遅く、ちゃんと机の前に座ったのが10時頃だった。

それで、天気もいいし出かけるかと思って、、近所とか大阪とか姫路とか尼崎とか、色々と浮かんだのだが、うーん、、、みたいな感じで、閃いたのが新幹線で名古屋行きだった。時々、新幹線に乗りたくなる。

でも行ってみると、あんまりピンと来ないで、少し写真を撮ってとんぼ返りした。帰りは米原経由で帰ったのだが、夕焼け時間あたりがちょうど米原くらいかなと思って降車した。

 

13時から21時までの8時間だったけれど、意外と色々と動けて、割と楽しい半日だった。

 

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名古屋ボストン美術館が入るビルの11階から階下を撮影

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電車が行き交う。金山駅辺り 

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長閑な土曜日の午後。車も少ない様子

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都市センターのような公共施設の床にプリントされた名古屋地図

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名古屋市のミニチュア

 

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都市イメージのコーナーに聳える象形文字を刻んだオベリスク

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金山駅前のカラオケビル

 

金山は、「かなやま」と読むが、「きんざん」と読んでしまう。金という字が韓国を連想させ、韓国といえば釜山(ぷさん)が思い浮かぶからだろうか。

 

土曜日の午後が、ゆっくりと過ぎていく。

ガス抜きに、親睦に

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昨日も飲み会があった。今月は割と暇もあって、また、飲みの理由もあって、毎週末飲みに行っている。

20代の頃は、仕事が忙しすぎて、反対に、課の多くの人が飲みに行かないとやっていられない感じで、週に3日くらいは先輩や同期と飲んで帰っていた。

 

昨日は、1番若手が、いつもにも増して破茶滅茶振りを発揮して、場を盛り上げたり白けさせたりしたが、それを見ていて、若い頃の自分もこんな感じだったのかもと思った。

 

若い頃の、特に学生の頃の私は、飲みに行くともう滅茶苦茶で、もうこいつは連れてくるなと店から言われたり、とにかく度がすぎていた。だけどその反面、後輩には面白がられていた。

 

飲みに行くと、人のまた違った側面が見えたりするから、面白いなと思う。

私はただただ自分が楽しいのと、場を盛り上げたいと思って、滅茶苦茶していたのかな?と思う。

1人が滅茶苦茶すれば、その雰囲気が感染して場が動き出すし、ピエロを演じる人は必要かなと思う。

 

今日は、いきなり名古屋に行こうと思って、昼から行ってきました。

また、次の記事に写真を載せます。

 

 

性なんて気にせず生きたい

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朝日新聞春香クリスティーンの発言が掲載されていて、彼女は「女性は私が持っている個性の一つに過ぎない」ということを言っている。

日本では、女性ということを女性自身も重く捉えすぎていて、女子力という言葉が流行るほど、と彼女は言う。

 

日本という国では、女性ということがレッテル・ラベリングとして作用していて、それがために生きにくかったり、嫌な思いをしたりしている。

日本は、経済的には先進国であるけれど、人権・性・自由・平等などといった近現代的なコンセプトに関しては、超後進国である。

中でも、性・性別については、遅れすぎている。

 

1980年代に、フランスのドゥルーズ=ガタリの「n個の性」という概念が登場したが、性は男性・女性だけではない。どんなものにも性があり、また私たちも男性・女性という性に留まっているのではなく、n個の性を横断しつつ生きている。私たちは身体という物質を伴った存在だけれど、その中を流れる精神・心・感情などと呼ばれる実体のない流動する流れは、時事刻々とその中身を変化させながら動いている。

人間を、精神と身体が融合し、せめぎ合っている場として捉えること。radwimpsの「なんでもないや」のように。

 

明日は健康診断があり、血液検査がある。私のあまり好きではない検査である。早く終わって欲しい。

桜の咲く季節を前にして

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 今朝は寒く、雪がちらついていた。

けれど、どことなく終局の寒さのようにも思えた。もうすぐ3月。暖かくなり始める。

雪景色の写真を撮りたかった。けれど、雪が降ると外には出たくない。

冬ももうすぐ終わる。夏の暑さが終わるのと似て、冬の寒さも終わるとホッとする。

 

春はあまり好きではない。秋は好きだ。

桜は前は怖かったけれど、今は不思議な花だと思える。いきなりあんなに満開に咲き誇る。そして、短い間に散ってしまう。儚い。

浮かれた感覚があまり好きではないのかもしれない。

春になると、気が違った人が時々、出没する。昔、どこかから帰ってきた息子と間違われて、気が触れた女性が急に私の乗っている車の前に立ち止まって、焦った。

 

小学生や中学生の頃は、春が待ち遠しいようにも思えた。新しいクラスに変わって、どの友達と一緒になるのか楽しみなところもあった。

子供って、やっぱり大人とは見ている世界が違う。早熟な子供というのもいるけれど、果たしてそれがいいのかどうか。子供は子供の時しか見れない夢を見ている方が幸せかもしれない。

 

冬と春の間の空白地帯。

今年の春は、カメラという武器があるから桜をたくさん写したいなと思う。

芸術・教育への意志

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乃木坂46橋本奈々未が卒業した。

彼女は生活苦の中で乃木坂を受験し、厳しいアイドルの世界に身を投じた。そして、もう芸能界からは引退し、一般人になるという。

 

乃木坂だけでなく、アイドル・俳優など芸能界で生きることは生半可なことではないし、そもそも目立った何かを持っていないと、芸能界に入ることはできないし、何かを持っていても偶然や運に大きく左右される。

 

芸能界は学者の世界と似ているところがある。学者も抜きん出た才能を持っていれば別だが、そこそこであれば、学者としての将来は、通っていた大学や師匠に大きく左右される。芸能界も所属のプロダクションに結構左右される。

 

私も、偶然の経緯から、小劇場系の役者さんをそれなりに見てきたが、テレビや映画で使える力を持った役者は、小劇場には結構な割合でいる。けれど、彼らがメジャーに進出する機会はまずない。この人はすごい演技力があると思っても、その劇団内から出て行くことはない。

有名なキャラメルボックスも、上川隆也がメジャーになったが、それも偶然で、キャラメルの他の凄腕の役者はそのまま、キャラメルボックスで生きている。

 

メジャーになることを望んでいる人ばかりではないだろうが、小劇場の経済的事情を考慮すれば、何らかの改革が必要だと思う。静岡県などのように、自治体がバックアップするとか。

 

日本は、芸術畑に対するお金の配分が上手くないのではと思う。それは、芸術に対する通暁のなさを物語っていて、通り一遍の芸術・文化しか見ていない。

経済的な配分が下手なところは、教育政策にも現れていて、これからの人材を育てようという国の将来に関わる一大事に、お金を投入することを控えてしまっている。