ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

使いやすい部屋で過ごしたい

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部屋にモノが増えてきて、机の上で作業をすることも増えてきたので、レイアウト変更しようと思う。

 

私は自分が使いやすいと思う部屋は、2LDKの50平米以上あるマンションで、寝室は6畳で、LDKのスペースが40平米以上あれば、本棚・長い机・ソファー・ダイニングテーブルが広々と置けて、寝室ともう一部屋で移動が少なく日常生活が送れてしまう。

言って見れば、事務所的な使い方が自分にはあっている。

 

今までに、転勤やら何やらで、かなり何度もあちこちに引っ越したが、上に書いたような部屋に住んだことも何度かあった。やっぱり使いやすかった。一日中、会社生活を送っているときは、住む部屋はあんまり活躍はしなかったが、自宅で仕事をすることが増えたりすると、事務所的なレイアウトは効果抜群で、ストレスが少なく楽しく過ごせた。

 

現在はそんなに広々とした空間で生活しているわけではないので、限られたスペースを使いやすいように、その時々に応じて仕様を変えている。

 

人の部屋の使い方を観察するのは参考になって楽しいけれど、実際、人の家に行くのも限られているから、本やネットで、人の部屋のレイアウトを覗き見して参考にしている。

 

私の重視する点は、やっぱり使いやすさ・機能性で、色合いやオシャレ度はそれほど気にはならない。と言っても、黒はあまり好きではなくて、白系統でまとめる傾向があると思う。他には、パソコンは高性能で、音楽用のスピーカーがしっかりしていれば文句はない。

 

今週末までに考えて、レイアウト変更しようと思う。

 

銭湯に、垢抜けしない時代の日本を見る

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風呂がまだ修理できておらず、仕方ないので近所にある銭湯に行った。

銭湯、スーパー銭湯、温泉など外湯に入るのは久しぶりなので、いつもと違うなあ、みたいな感じだった。

私はそもそも、お風呂が嫌いではないのだが、お風呂に長く入っているのが苦手で、温泉に行っても、わずか20分くらいで上がってしまう。自宅のお風呂に入っているのと同じである。

 

本日、久しぶりに銭湯に行って、何というのか、大袈裟に言えば世間というか世の中というか、そういうものに触れた感じがしました。

毎日、仕事に行って、電車に乗って世間と接触してる訳だけれど、銭湯に行くと、また普段とは異なった人たちに出会える。普段、接触できない人と接触できる。

今日行った銭湯には、お年寄り・刺青の人・番台にいるやけに高齢のおばあさんなどがいた。

それほどいつも歩いていて出会う顔ぶれと違わないとも言えるけど、刺青の人に出会うことはあまりないし、風呂場という裸の付き合いの場だと、普段見ている人でも身近に感じられてしまう。

 

言いたいことがうまく表現できないのだが、私が子供の頃に行った銭湯には、刺青の人だけでなく、見るからに一癖も二癖もある人が来ていて、大声で演歌みたいな歌を歌う人もいて、銭湯という場自体が、社交場というか、色々なものが混濁した空気を醸し出していた。

その空気は、今日行った銭湯にもやっぱりあって、会社などの、取り澄ました人たちがいるだけの平板な場とは違った空気が支配していた。

 

芥川龍之介が『戯作三昧』の中で銭湯に通う滝沢馬琴のことを書いていたけれど、銭湯という場は、江戸時代や、そこまで行かずとも昭和・大正・明治の、日本がまだ泥にまみれていた時代を想像させるのに打ってつけの場、そうしたものを想像できる最後の場なのかなと思う。

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

 

 『テルマエ・ロマエ』ではないが、銭湯という文化は日本らしさの象徴と言えるのではないだろうか。

 

 

ここ数日間

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自宅の風呂が使えなくなった。

エラーコードを見ると、ヒューズが切れかかっているらしい。冬場には風呂を長時間沸かすので、何年も使用していると経年劣化して取り替えが必要になるみたいだ。

 

週末は駅前の本屋でヤマザキマリとり・みきプリニウス』Ⅴ巻を買って、仕事仲間で飲みに行った。

まあ、楽しかった。

私は飲み会や食事会は、できれば自分のペースで過ごしたいと思う方で、人の話も聞きたいけれど、ゆっくり落ち着いて過ごしたいなと思ってしまう。

 

今週は今のところ、全く外出していない。

部屋の整理をしたり、音楽やMVをかけたままにして、マックで文書や表を作ったりしていた。

マッサージルームに行って、凝り固まった体をほぐして欲しいと思うけれど、店が多すぎるのと、行くのが面倒でなかなか行けないでいる。

ラーメン屋にも行きたいし、本屋にも行きたいし、写真も撮りに行きたいけれど、寒いからかな、外出気分ではない。

 

部屋にやっとカレンダーを掛けた。写真雑誌付録の猫ちゃんのである。

猫は昔、人に頼まれて半年飼ってたけれど、犬とは性格が全く違う。猫の正義と犬の正義は違うのだろう。

 

私の夢を見ている犬がいるのかもしれない。犬の夢を見ている私がいるのかもしれない。

もう何年も、落ち込むということがない。以前は、周期的に気持ちが落ち込んでいた。また来たなという感じだった。特に、人と飲みに行った後はそうだった。

でも最近は全くない。何に対しても、そういうこともあるだろうと受け流せる。

 

とは言っても、人からは、どうしてその歳でそんなに少年みたいな心なの?って不思議がられる。自分でも、あんまりひねりがない人間だなとは思う。

 

今も人気があるのだろうか?『けいおん』というアニメがあったけれど、音楽をみんなで作り上げていくのは楽しい作業だと思う。

私はワンマンでなんでもやろうとするタイプなので、グループの大事さを忘れてしまうことがある。自分一人で作り上げたいという気持ちが強いように思う。

でも、そこはもう少し人を使って全員でやり遂げようとする気持ちがないと行けないと思う。今年の目標の一つかもしれない。

 

だらだらと書きすぎました。

終わります。

 

松野莉奈逝去、死に対面して

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アイドルグループ私立恵比寿中学松野莉奈が18歳で病死した。

私は松野莉奈のことは知らないのだが、18歳で死去というニュースに驚いた。

 

私も20代の頃、同じ大学の先輩・同期・後輩が逝去した。先輩は突然死、同期は病魔と闘っての死去、後輩は断定はできないが自殺だったと思われる。

どの死にも驚いた。特に後輩の死は私が卒業してからで、電話で知らせを受けた。その時の風景や空気を今でも写真のようによく覚えている。

私が在学中で、悩みなど相談してくれていれば死なずに済んだかもしれない。なんで死んだんだよと思った。

 

でも、人の死で一番辛かったのは自分の祖母が死んだ時だった。

癌で、最後に見たとき、もう余命幾ばくかという状態だった。

だから、覚悟はできていたけれど、下宿先の電話が鳴って祖母の死を知らされた時、止めどなく涙が流れた。辺りの空気が止まった中で、涙を抑えることはできなかった。

 

人の死は辛いものである。その死が身近な人であると、本当に辛い。それに加えて若死にだと、残されたものの辛さは尋常ではない。

 

松野莉奈さんも辛く無念だったと思う。それに残された身内や友人の方は本当に辛いと思う。でも時間は掛かっても乗り越えて欲しいと思う。

 

 その昔、人生50年と言われたし、人の寿命も短かった。人は戦争や飢饉などで虫けらのように死んでいった。

だから、早死というのは大昔はそれほど珍しくはなかったのかもしれない。身内の人は悲しかっただろうけれど、よくあることだったのかもしれない。

 

夭折という言葉が登場したのはいつ頃のことだったのだろう?

石川啄木ガロア、ラディゲ、北村透谷など、夭折の天才と言われる人は結構いる。でも、若くして死去し名を残したのなら、それは天才だろう。僅かな期間に優れた業績を残したのだから。

 

夭折という言葉は、病死・事故死の場合に適合するように思う。だから自殺は夭折とは少し違うニュアンスを含んでいるように思う。

ともかく、死んでしまう場合、自殺とそれ以外に分かれるだろう。

 

沖雅也が飛び降り自殺をしたのは衝撃だったし、岡田有希子の飛び降り自殺も本当に驚いた。

田中実の自殺にも、伊良部の自殺にも驚いたし、覚えてはいないが三島由紀夫切腹もそんなことする人がいるのかと驚いた。

 

年齢に関わりなく、自殺というのは、人間に固有のものだし、衝撃的な行為だと思う。

 

死ぬということは、誰しも体験しなければならないことだし、というか避けて通れないし、そこで存在が消えてしまうわけだけれど、未知の領域だから想像しにくいし、怖いと言えば怖いし、できれば眠るように死んでいきたいなと思う。

イスラム教、宗教、日常を超えて

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仕事場にイスラム教の方が来られた。マレーシア出身ということだ。

 

マラッカ王国の古よりイスラームを奉じたマレー半島の住人は、今も国教としてイスラム教を信仰している。

泥が合流する地クアラルンプールは、東南アジアの要所にして世界都市である。マラッカ海峡を巡って、これまで数々の諍いが起こり、幾多の国々が覇権争いに加わった。

マレーシアは、外来からの襲撃を受けない島国日本とは、また異なった歴史を歩んだ。

 

イスラム教は、日本人には馴染みが薄く一番分かりにくい宗教だと思う。

けれど、イスラム教は他の宗教に比べて、その信仰が生活体系として極めて明瞭に表現されているため、宗教というものの姿を確認するには一番分かりやすいと思う。

 

よく知られた断食や身体化された礼拝、クルアーンに記述されている様々な言葉など。

イスラム教は、宗教であると同時に生活規範でもある。

拘束の程度は様々だが、比較的最近の宗教であるオウムやエホバなどは、イスラム教まで行かずとも、宗教規範が生活規範として信者を拘束しているように思う。

 

どの宗教を信仰しようが、本人が納得し満足しているならば、それはそれでいいのではと思う。

私たちの属する社会自身が、何かを信じることで初めて成立するものであることを考えれば、そもそも私たち自身が宗教的な存在だと言える。しかし、普通は私たちが何かを信じているということは意識されない。

そう考えれば、宗教とは、信じるということを、意識的に目に見える形で示している事象だと言えるのではないかと思う。

 

カフカは深夜に文章を書いている時間こそ、本来の自分自身に戻れる時間だと書いていた。

人が寝静まった夜に、誰に宛てるともなく書き綴る言葉は、昼間の、資本が支配する論理とは異なった論理で綴られていると思う。

それは誰に向けて語られているのか分からないけれど、一つは自分自身、一つはあの人に向けて書かれているのかもしれないけれど、独自のリズムで動いている。

 

終末のような週末。でも終わらない日常。

手探りで、目に見えない不可触の導きの糸を求めて、現代人が宗教に引き寄せられる心情も分からないではない。

 

愚痴なんだろうか、どこか物憂い

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書くことがない訳ではないが、後回しにしてしまう。

ぼーっとしてゲームやったりとか本読んだりとか。

アリアドネの麻玉の葉(菜)のことはいつも考えている。

 

昨日は、ここまで書いていたら寝てました。

 

先日行われたコンテストも兼ねた事業発表会では、見事入賞を果たしました。

 

近頃は、仕事も忙しいと思ったら楽になったり、楽になったと思ったら忙しくなったりと、コロコロと状況が変わり、寒さも寒いなと思ったら暖かくなったりと、気温も落ち着かない。

 

最近、少し関西方面で生活している実感が湧いてきたように思う。

でも反対に、長年住んでいた関東のことが薄れていくのは寂しい。

 

そんな風に思ったのは、今月末に発売予定の村上春樹の新刊『騎士団長殺し』のことを考えた時、5、6年間隔で発表される村上の新刊を、私はいつも池袋東口のリブロで仕事帰りに買っていたなと思ったからだ。

でも今回はリブロでは買えない。

 

私にとって関東は膨大な思い出・記憶とともにある。でももう、そうしたことは過去のことになってしまった。楽しいことや悲しいこと、嬉しいことや辛いこと、そうした悲喜交々の思い出も、遠い記憶の堆積になって行く。

 

これからどうして行くのか、どうして行きたいのか、本当のところは私にも良く分からない。もしかすると、私は自分の軌道を踏み違えているのかもしれない。

 

夏目漱石は膨大な小説群を書き残して死んでいった。彼の小説を読むと、そこには漱石の苦悩の痕跡を痛いほど感じ取ることができる。

 

私はいつも変化を求めてきたように思う。でも今は変化というものがない。安定に慣れてしまったのかもしれない。

スリルがあり、絶え間なく変化し続ける生活。何かがもっと蠢いているような、怖いけれどワクワクするような瞬間と背中合わせの空間。賑やかで、でも味わいのあるひと時。

 

また眠気が襲ってきたから、まとまりがありませんが、ここまでにします。 

人前に立つということ

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今週、会社の各事業所の事業発表会があり、私の所属事業所からは私が代表として演壇に立つことになった。

今までにも、数人から数百人規模まで、色々な人の前で、何度も話はしてきたけれど、人の前で話すことは何らかの予期しない刺激があって、結構好きである。

 

子供の頃、生徒会長をしていたので、月曜日朝の全校集会で何百人かの前で話したのが、大勢の前で話す最初だったかなと思う。

また子供の頃には、セミプロ?に近い音楽活動を行っていたので、多いときは千人ぐらいの前で活動した。

塾の教壇に立っていたこともあって、その時は学校のクラスぐらいの人数だった。

 

こちらが万全の準備をしておいて話せば、気持ちよく話せるもので、人の数はほとんど気にならない。ただやはり、人の表情を見ながら話さないと、微妙な話し方の匙加減ができないで独り相撲になるので要注意だと思う。

 

ともかく、人の前で話すときには、万全の準備が必要で、昔、教育実習に行ったときに、このことを痛感した。十分な準備ができていないで授業をすると、準備万端の時と比較して、生徒の反応が全く違う。人は正直なもので、面白い時は目を輝かす。

 

最近は寝不足気味で朝が辛い。

数年前に寝不足で自動車自損事故を起こしてしまったのだけれど、寝不足の時は車に乗るのは止めた方がいい。