ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

平成の風景2。明日は知れず〜消滅した街の停電〜

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Tomorrow never knows」が街に鳴り響いていた頃、東京東部の自宅近郊をよく歩いた。

 

とどまる事を知らない時間の中で

いくつもの移りゆく街並を眺めていた

 

新宿・池袋・銀座・御茶ノ水の街によく行った。どこまで行ってもどこまで行っても街が続いていく東京の風景。

私は東京という空間が好きだった。人が流れ、ビルが流れ、人混みの非人称の空間をすり抜けていく居心地の良さ。

誰にも縛られず、誰をも縛らない大都市という爛熟した空間

 

平成の東京の街

街は時代を映す鏡

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そして街の風景の中へ一歩入ってみると、ここにも時代が映し出されていた。

 

平成6年。日曜日の夕方、突然停電になったことがあった。

最初は自宅のブレーカーが落ちただけだと思って、風呂場近くにあったブレーカーを見に行ったが何ともなかった。

不思議に思って外に出ると、辺りは真っ暗だった。何人か近所の人も出てきていて、不思議な表情を浮かべていた。そのまま、100メートルほど行ったところにあるコンビニまで行ってみたら、そのコンビニも真っ暗になっていた。

その時気付いたのだが、私の町内からそのコンビニまでの一体だけが停電になっていた。遠くから見ると、一区画だけが真っ暗になっていて、その周囲は普通に電燈や家の明かりが点いていた。

そのあと、どうすることもできないから家に帰って寝てしまったように思う。

 

たった一回切りのそれだけの小さな事件だったのだが、それは昭和時代の生活感覚の灯火であったと思う。

昭和には、テレビの画面が突然暗くなったり、停電も時々あった。停電は物理的な・機能的な問題であったのだけど、日常の振る舞いでも、停電のように一時停止することが許される余裕の感覚があった。

平成になると、停電などの非日常な光景は目にしなくなって行き、日常生活においても失敗は許されないような、そういう感覚が広がっていったように思う。

 

社会から余裕が消えてしまったのだ。

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どこまでも連なっていく都市風景

ただ時を刻んでいく時間の流れ。明日に何かが期待できる訳ではない。

未来ではなく終末を望む人々。未来ではなく来世に望みを託して生きる人たち。

フラットな心情でフラットな世界を生きる人々の群れ

明日があるさ」の感覚から、「明日は我が身」の感覚へ

 

夢中で駆け抜けるけれどもまだ明日は見えず

勝利も敗北もないまま孤独なレースは続いていく