土曜日の午後は、金曜日の朝と同じくらい好きな時間だった。
学生寮のベッドの上に寝転んで、外に生い茂る木々を見ながらぼんやりしていた。
仕事を始めてからも、土曜日の午後は窓の近くに横になって外をぼんやりと見ていた。
夕方になって、外に出て、暮れ行く夕日を眺めながら、近くのスーパーに入って買い物をしていた。
自宅近くにある湖まで歩いて行って、湖畔に並んでいる木のベンチに腰掛けて、水面をぼんやりと見ていた。それほど大きな湖ではなかったけれど、水深は深そうに思えた。
人は、明晰な頭で生きている時間よりも、ぼんやりとしている時間の方が長いのだろうか。
旅は、意外と頭を使う。初めての場所だから、体が自動的に動いてくれない。のんびりと旅をすると言っても、仕事から解放されているだけで、頭はそれなりに動き回っている。
明確な人生の目標を持って生きている人がどれだけいるのだろうか。
目標を持つこと自体を目標にしているだけではないのだろうか。
私も目標を持たなければいけないと思っていた時期もあった。だけど、湧き上がってくるものがなければ、目標など持ちようがない。
ぼんやりとしているのが目標だろうか。ぼんやりとしていれば、何かが沸き起こってきたとき、すぐにその方へ移行することができる。
音楽は、歌詞のあるものを聞いているよりも、クラシックやジャズの音だけの世界に浸っている方が邪魔にならず楽な時がある。
音も何かのメッセージを伝えてくるが、言葉のように一義的なメッセージにはならない。この音だけの世界にいるのも、ぼんやりとできる空間である。
闇だけでなく、光だけでなく、両者の織り成す世界。明確な意味を与える世界ではなく、どこにでも移動できる世界。
『狂気の歴史』にしろ、『21世紀の資本』にしろ、『聖書』にしろ、ぼんやりと読んでいる方が理解しやすい。その厖大なページ数を前に、構えて読もうとすると挫折してしまう。あまりじっくり読みすぎると息を切らしてしまう。
ぼんやりとして、何が来ても受け入れ、何が来てもそれに移れる柔軟な体勢でいること。
無理しないで言える目標って、これかな。