ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

時計じかけのオレンジ

時計じかけのオレンジ [DVD]

時計じかけのオレンジ [DVD]

1971年の作品である。今見ても古くさくないというのは、驚きであると同時に、キューブリック映画に古さ、時代性の刻印はないのかも知れない。

とは言っても、この作品より前の作品に関して言えば、さすがに古さを感じる作品がほとんどのように思う。博士の異常な愛情やロリータなどがそうである。
私の見た目では、キューブリックはこの時計じかけのオレンジから、新しいキューブリックになったのではないかと思える。SF映画史上、画期的と言われている2001年宇宙への旅にしても、その哲学的な意味とは別に、映像的には古いと言わざるを得ない。

さて、時計じかけのオレンジの何が新鮮なのだろうか?どこが新しいのだろうか?
それはこの作品から遺作アイズワイドシャットまで通じるキューブリックの映画文法が開始されたのではないだろうか?そしてそれが今も古びない新しさの次元を獲得したのではないだろうか。

漠然とした言い方をすれば、整頓された美しさとでも呼べる佇まいが時計じかけから始まった。躍動するアクションが連続する時計じかけ冒頭のドルークたちの行動。彼らの派手な行動には、矛盾するようだが、静的な整頓された美しさが見て取れる。その美しさはロッシーニ泥棒かささぎというクラッシック音楽という合理化された音楽に乗っていることも影響しているだろう。キューブリックの映画は合理的な旋律のある文法に則って進行していくのである。
もう少し言えば、泥棒かささぎの旋律は、ドルークの暴力の世界とは分離された場所で流れているようであり、暴力的な世界を冷めた目で見ているようでもある。勿論、映像と音楽が一体となって迫力あるスピード感に満ちた車の疾走場面などでは、音楽は映像に急接近している。
この説明にはもう少し映画の全体を通した映像と音楽の関係を調べてみる必要があるけれども、キューブリックが音楽としてクラシック音楽を多用していたことは、映像に見合ったオリジナルな音楽を採用するのではなく、つまり映像ありきの音楽ではなく、既に存在している領域の音楽を映像に当て嵌めたのである。
ここには、映像と音楽をどのような関係として考えるかという興味深い問題が控えている。