ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

一番大切なことは目に見えない

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前に行った尾道の写真です。

近頃は遠出もしなくなってきた。行きたくないわけではないけれど、旅行熱が下火である。

私は山よりも海の方が好きである。山も見るのは好きだけれど、登ろうとは思わない。

まあ、海も見るだけで泳いだりしないけれど。

 

旅行よりも、美味しいもの・珍しいものを食べたいとか、私にしては珍しくゆっくり温泉に浸かりたいと思う。温泉はとにかく苦手で、長い時間入っているのがとても苦痛だった。

少し電車に乗る→温泉街で温泉に入る→美味しいものを食べて、地元のお酒も味わう、みたいな感じがいいかな、と思います。色々な種類の食べ物を少しずつゆっくり食べたい。

ゆっくり落ち着いて、何でもやりたいと思います。

今もこのブログを無理せず、ゆっくりと思いついたことを書いています。

 

今朝、ウェブの朝日新聞を開けたら、「シェイプ オブ ウォーター」という映画の広告が出ていた。男性の人魚のような生物と口が聞けない女性との交流のストーリーらしい。映像がとても美しく、キャラクターや時代背景なども興味が引かれた。


『シェイプ・オブ・ウォーター』日本版予告編

 

言葉を持たない女性と人間ではない生物との交流。ここにあるのは、ざっくばらんに言えば、心を介しての交流。サン=テグジュぺリの「一番大切なことは目に見えない」水準の物語です。

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

 来月、数年ぶりに東京に行くので、楽しみのような怖いような複雑な気持ちです。

結構、変わっているんだろうなと思います。あちこち、思い出深い場所はあるけれど、今回は無理なので、またそのうち、ゆっくり時間をとって行きたいなと思います。

東京に行くことで、これまで見えなかった何か新しい発見があればいいなと思います。  

君の代わりに僕が炎上してやるさ

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 物理と化学と日本史が勉強したかったから、高校時代その三つを選択した。

大学時代、英語ではなく他の言葉を一つでも学びたかったから、英語の授業は取らなかった。

カール・ポランニーは、自分のしたいことを学ぶのが本質的なことだと言っていた。

理科系と文科系と美術系と音楽系と体育系があるとすれば、そのどれかを選んで他を捨てざるを得ない時もあるが、できればその全てを学びたいと思う。

 

高校3年生の時、物理に関心があり選択した。担当教師は授業を行うことに対して熟達していたけれど、初心者に物理の面白さを教えることには向いていなかった。少なくとも私はそう感じた。

小学生の頃、ずっと動物や虫や電気のおもちゃや磁石やら、理科に関わることにとても惹きつけられていた。勉強はできなかったけれど面白いと感じていた。それが中学に入って習う理科は全くつまらないものだった。だから興味をなくしてしまい、遠ざかってしまった。

高校に入って接した理科の科目は専門性が高くなっていたが、再び私は小学生時代とは違った感覚から理科に引かれた。それは、子供時代に感性で接していた自然が、数式で表せる法則として存在していることに驚いたからだと思う。

 

本格的な受験の季節が到来して思うのは、その場しのぎで受験をやり過ごしたとしても、本当に学ぶことの楽しさに出会わないことには、面白くないだろうということである。

 

学歴が現在、どの程度重要なものとして罷り通っているのか分からないけれど、本当にこれをやって生きて行きたいと思えるものに出会えたなら、学歴など無視するのがいいと思う。

学歴は社会に出るためのお守りとして機能するけれど、それが使えるのはいわゆる新卒者だけである。社会で長く暮らしていると、学歴など殆ど意味をなさない。

もちろん優秀な大学を卒業していると、それなりに知的レベルは高いだろうから、様々な場面で頭脳を駆使することはできるかもしれない。

 

 受験を迎える中学生や高校生といった、子供でもなく大人でもなく、その中間の年齢、精神的に不安定な迷える人たちは、いつの時代も同型の問題を抱えている。

 

欅坂46「避雷針」は、孤独な者への理解を示す。

 

そんな不器用さを守るには

僕がその盾になるしかない

世の中の常識に傷つくのなら

君の代わりに僕が炎上してやるさ

いつだってそばに立っててやるさ

悪意からの避雷針

 

欅坂46の楽曲は、デビュー当時から、「反抗・孤独・愛・自由・運命・未来・仲間」といった言葉を核としたものだった。

過去の世代も、大人に反抗し、新しい未来を描いて若者としての自己主張を行なった。

現在の欅坂世代も、すべての若者が通る通過儀礼を行なってはいるが、過去の世代が本気に見えた反抗態度を示したのに対して、現在の世代は反抗していても、そのパフォーマンスが見えにくいと思う。

欅坂の新しさは、その見えにくい反抗のそぶりを、歌詞として強烈に前面へと押し出したことにあると思う。

 

世の中の常識に傷つくのなら

君の代わりに僕が炎上してやるさ

 

社会のヴィヴィッドな変化を見るなら、若い世代、10代や20代の反応や価値観を見るのが一番だと思う。

多くの大人は、何か重大なことが起こったとしても、そんなこともあるだろうと思って、それほど反応しない。

若い人たちは、実際にニュースを見ているとかではなくて、身の回りの変化や大人の態度に敏感である。敏感だからこそ、少しのことで壁を作ったりしてしまう。

 

私も、10代の頃、特に中高生の頃、人や社会との間に壁を作ってしまい、ぎこちなく生きていた。

 

遮断機降りたままの開かずの踏切みたい

心を閉ざして僕をいつまで待たせるんだ?

君っていつも何か言いかけて 言葉 結局飲み込むよ

 

この歌詞は嘗ての自分のことのように思えた。 

だけど、こうした不器用さに立ち向かい扉を開いてくれるのは、結局、友達、先生、親、先輩、、、といった誰かなのだ。

現実は何処かで彎曲し別世界に通じている

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何かの拍子に、いつも不思議だなと思うことがある。

それは、過去に知り合った人たちが今この瞬間、どこかで生きていることである。目の前にいないのに、どこかで生きているという事実。そのことがとても不思議に思える。

しかし、この不思議さは、簡単には出会えない人・二度と会えないだろう人だからこそ、生まれてくる不思議さだと思う。だから、普段は会えなくても簡単に電話で話ができるとか、一年に一度会える人であれば、この不思議さは生まれてこない。

 

もしも、決して出会うことのない人たちが出会えば、それは運命的な千載一遇の出会いと言える。

私が惹かれる物語は、そうした運命的な出会いを含んでいる。

 

君の名は。』で主人公の瀧と三葉は、名前は知らないが相手を知っているという不思議な感覚から、運命的な出会いをする。

村上春樹『1Q84』では、現実と少しだけずれた世界が描かれる。そこで青豆や天吾が出会っている人たちは本当は誰なのか。

セルバンテスドン・キホーテ』の第二部で、ドン・キホーテは第一部を読んだという人物と出会う。小説の主人公が現実の人物と遭遇する。

こうした要素を含んだ物語はたくさんある。

ラテンアメリカ文学には、現実と虚構・空想が入り混じった混沌とした世界を描いているものが多く、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』はその際たるものである。

世界の文学〈31〉ドノソ/夜のみだらな鳥 (1976年)

世界の文学〈31〉ドノソ/夜のみだらな鳥 (1976年)

 

 現実はどこかで少しずつ湾曲して、別世界に通じている。

 

量子論において、原子の世界では、現実世界とは全く異なった世界が広がっていて、その原子の世界を量子論を元に目に見える現実世界に敷衍すれば、現実が違った形で記述できるだろう。

 

音楽や映像は、言葉以前の世界を指し示す。言葉に置き換えてしまったら、その意味は一義的に定まってしまう。言語以前の動物的な感覚の世界。

反対に、言語の世界を言語化以前の世界に置き換えることもある。

バレー音楽やダンス・振付などはその一つだろう。

 

昨年の暮れ、平井堅「ノンフィクション」を欅坂・平手友梨奈が振付するコラボレーションがあった。

「ノンフィクション」の歌詞を解釈して忠実に再現しているパフォーマンスであったが、音楽→言葉が一義的なニュアンスになるのに対して、言葉→ダンスは歌詞の創造的な解釈が可能であると思えた。おそらく、言葉が言葉以前に戻ったお陰で、それを目撃する私たちに複数の解釈が可能になるからだと思う。


ノンフィクション 欅坂46 平手友梨奈

 

幼い子供や小学生・中学生は、夢見がちだと言われたりする。大人になると現実を知り、夢は見なくなると言われる。

これは、現実に対する選択肢が消えていき、定まった生き方を強いられるからだろうが、この強いられ方自体が一つの神話であり、開かれた選択肢は他にあると思う。

 

描いた夢は叶わないことの方が多い 優れた人を羨んでは自分が嫌になる

浅い眠りに押し潰されそうな夜もある 優しい隣人が陰で牙を剥いていたり

 

惰性で見てたテレビ消すみたいに 生きることを時々やめたくなる

人生は苦痛ですか? 成功が全てですか?

 

僕はあなたに あなたに ただ会いたいだけ

みすぼらしくていいから 欲まみれでもいいから

僕はあなたの あなたの 本当を知りたいから

 

響き消える笑い声 一人歩く曇り道

僕はあなたに あなたに ただ会いたいだけ

 

平井堅「ノンフィクション」

 

決して出会えない人への通路、二度と出会えない人への通路。

物語はそれを可能にする。

大人は、固定化された回路しか持たない人の代名詞。別世界への回路にいつでも接続できる柔軟さを持てば、世界は違った風景を見せてくれる。

私たちは自分が指指すものを見つけられない

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西武線沿いに住んでいた頃は、東村山駅所沢駅の立ち食いそばを食べて、駅近くの喫茶店に行くのが、週末のいつもの行動パターンだった。でも所沢駅の老舗の蕎麦屋は閉店してしまったとニュースで聞いた。

喫茶店に入って新聞や漫画や雑誌をぼんやり読んでいると、その時間が至福の時に感じられた。大して仕事も大変ではなかったのだけれど、休み前というのはホッと一息つけて、肩の荷が下ろせる瞬間である。

 

今週末は、ふらっと出掛けて、文房具や服や本を見に街を取り止めもなく回って来た。

毎年、12月か1月頃になると手帳を買うのだが、大して手帳も使わないので今年は買わないで過ごそうと思っている。手帳が出る季節になると、来年はこの手帳を使ってこういう目標でやっていこうみたいな気になるし、手帳がそうした物語を抱かせるような構成・中味になっている。

しかし、続くのはひと月くらいである。そのあとはたまに手帳を開いて書き込むくらいで、どんどん手帳の存在は忘れ去られて行く。

会社で外回りの仕事をしていた時には、小型の手帳をいつも携えて予定をどんどん書き込んでいた。だけど、今はそんなに会議もないし、予定はLINEやスマホで管理してしまうし、手帳の存在は少なくなって行く。

 今までで一番使いやすかったのは、ほぼ日手帳である。書く気があれば一杯書けて、楽しい手帳になると思う。

 

服も、長年着たコートが少しずつ綻びて来て、冬用のジャケットが必要かなと思って見ているのだけれど、しっくり来るものがあまりない。

街の人の服装を見ていると、似非ブランドらしきものを見かける。特にアウトドア系やスポーツ系のメーカーに似せたものが目につく。という私も靴下とか、これ本当にロゴの入っているメーカーが承認した上で作っているのかなという類のものを買っている。

ともかく、自分の機能や用途に合った服が欲しいなと思う。

 モンベルパタゴニアゴアテックス仕様のジャケットは薄手だけれど、かなり暖かい。欲しいなと思うけれど、値段もするし、山に行くわけでもないから躊躇してしまう。

 

関西に来てから、あまりお蕎麦を食べなくなった。どちらかと言うとうどんである。出汁は関西が断然美味しい。関東の出汁は濃すぎるし、味が単純。だけど、蕎麦自体は関東がコシがあって美味しい。西武線沿いの狭山そばは美味しい。

食は重要である。毎日、コンビニ弁当ばかり食べていると体に悪いと思うし、自分で作って食べれば美味しいし、栄養もあって体にいい。

どうすれば手軽にちゃんとした料理が作れるか、電気製品や部屋の電気製品の設置場所など、気が向いたら考えている。

 

量子論、エンデのはてしない物語、三島の禁色がマイブームである。自分は書物を基準に生きているのかと思うほどに、書物との接触が多いし、関心が高い。

スマホKindleを使い始めてからは、文庫を持ち運びすることも減ったけれど、Kindleの欠点の一つは、自分の書籍が一目で一覧できないことである。多数の電子書籍を購入すれば、過去に購入したものを忘れてしまう。その時、本棚のように一気に全体が目に入らないし、物質感がないので、インスピレーションが湧きにくいように思う。

因みに、Kindleでのマイブームは最近最終巻が出たへうげものである。

 へうげものは、現代人の生き方としても参考になる織部こと古田佐介の一代記である。

私たちは自分が本当は何を欲しているのか、よく分からないものである。

地震のあとで

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阪神大震災から23年が経過した。

ニュースを見るまで忘れていた。こんなに大きな出来事も月日が経てば忘れられていく。

大震災の日、私は東京の自宅にいて、テレビで震災を知った。

驚いたので、関西の実家に電話をした。

同じ日本と言っても500キロ以上も離れた土地のことで、もう一つこの国で大震災が起こったという実感が湧かなかった。

だけど、同じ1995年に起こった地下鉄サリン事件も、自分が良く使っている東京メトロサリンがばら撒かれた映像を見ても、現実感がなかった。

当時の私は感受性が乏しかったのかもしれないが、人が地震によって死んでいく様を目の当たりにした訳ではないことも、現実味がないことの理由かもしれない。

とは言え、他人の痛みを自分のことのように感知できる人は、大地震によって人々が受けた苦しみを自分のことのように感じ取り、しばらくの間、正常に生活が送れなかったという。

 

23年後の今、新聞やネットで流される大震災の記事を読むと、心が震え、涙が出そうになる。肉親を失った人の辛さを綴った文章を読むと、自分のことのようにその悲しさや苦しみに向かい合うことになる。

どの人にも幸せでいて貰いたいと思う。苦しさや悲しさは人を強くする。でも、出来ることなら、そういうマイナス面に出会わず過ごしていくのが一番だと思う。 

 

実際の大震災の赤裸々な姿というのは、ニュースで知った姿とはもっと違った形をしていると思う。

大震災の現場にしか地震の現実はないとも言える。

現実から離れた人が、実際に体験した人に急接近して、彼らの感情を汲み取ることができるだろうか。

優れた文学、感受性豊かな人、経験豊かな人は、被害者の心に急接近し、被害者以上にことの本質を捉えることができる。

 

地震の現実への想像力、人が直面している日常への想像力

2018年、平成30年を迎えました

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2018年、平成30年が到来しました。

平成はあと1年ほどで終了してしまいます。今から100年前は大正時代。

大正時代も15年と短かった。

平成も31年。短い。

 

冬休みは、読みたい本や見たい映画にひたすら関わっていました。

ブログのことは、何か書きたいなと思いながらも、書いていませんでした。

今年も少しずつ、書いて行こうと思います。

 

探偵小説が日本に登場したのが100年前くらい。それまでにはなかったジャンルの小説。

このこと一つでも、時代や年代に断層や連続があることが分かります。

 

現在、何が時代の焦点なのでしょう。

高齢化や環境問題やAIといったニュースレベルのキーワードは浮かびますが、私たちの身近な事柄として、どんな問題があるのか、等身大の目で見られればと思います。

 

それには本や映画や音楽も大事だけれど、人や街と触れ合うのが大事。

インターネットでラーメン特集をしている番組を見ていたら、北海道が出ていました。街の人が普通にラーメンを食べている姿が映っていました。

市川や環七沿いのラーメン屋に良く行っていた時のことを思い出しました。

近頃は、週に一度外食するだけで、街を歩くのもその時くらい。

 

人や街との交流。ここ数年の私は交流範囲が狭くて、これは良くないなと思います。

その辺りを開拓していきたいです。

 

今年も宜しくお願い致します^^

 

 

 

シェアリング、不確かな未来への舵

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シェアリングが少しずつ認知されてきている。

住居、車、宿泊所、オフィスなどがそうだが、私個人だと、旅行先も含めて住まいをシェアするのは難しいと思う。

そもそも寛げない。プライベートな空間に他人が入ってくることがストレス。

新入社員時代、ホテルに1ヶ月以上缶詰にされて、5、6人と寝起きをともにしたが、相当鬱陶しかった。学生時代の部活で、休みになると多くの友達と大部屋で一緒に住んでいたが、これも楽しいところもあるがトータルではしんどかった。

私の感覚が他の人にも共通するとは思わないが、多くの人にとって、わざわざ他人と住居を共有するのはご免だという感覚が一般的ではないだろうか?

だから、この感覚からスタートして、ルームシェアリングをビジネスとして成立させて行くのには一工夫いるし、どういった人がシェアリングを活用しそうなのかを考える必要があると思う。ルーム・シェアリングの実際は知らないが、極端に値段が安いとか、何か差異がないといけない。

 

しかし、同じシェアリングでもカー・シェアリングは将来、私も使う可能性はある。

そもそもレンタカー自体が、シェアリングと言えるし、レンタカーならば使いたいときに乗りたい車を借りて、費用もそれほどかからず楽しめる。

実際、ベンツやアウディなどの外車は買ってまで乗ろうと思わないが、興味本位で数時間借りて乗ってみるのも面白いし、引越しの時など、小型トラックを借りれば引っ越しが自分でできてしまったり、費用を抑えることもできる。

私も長い間、自動車に乗っていたが、かなりの費用が掛かる。本当にどうしてこんなに費用が掛かるのと思えるくらい掛かる。お金持ちはともかく、庶民は電車・自転車で済ますのが賢明だと思う。

 

村上春樹「木野」に3匹も蛇が出てくる場面がある。

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

 

 物語では、地震か何かの前触れだろうかと書かれている。

主人公木野の身辺に起こった変化と連動して、蛇の登場や猫の退場が起こるのだが、私の子供時代に住んでいた古い長屋には、蛇・イタチ・鼠・猫などが出入りしていた。

インターネットで見ると、イタチが家に住み着くと良くないと書かれているのだが、私の印象だと、イタチが家に住み着いていた方が安心だと思う。

子供の頃に、ある部屋の天井に繋がる板を外して取り替えたことがあった。

天井の板を取り替えることで、部屋は見違えるほど明るく綺麗になったのだが、その大工作業が終了する頃に、窓の外を眺めていた私と母親の頭上を、イタチが猛スピードで飛んで行ったのを目撃した。

私はそれが何か分からなかった。見たことがなかったのもあるが、あまりにも凄い速さで飛んで行ったので、一体、今のが何なのか目に止まらなかったのである。

このことと同時に、私の家の成り立ちが少しずつ変わっていったように思う。

 

家も人も、その土台がしっかりしていないと、脆くて崩れてしまう。

現在では、家に動物が住み着いているという家は少なくなっただろうが、動物が住み着くというのは、彼らにとって住みやすく居心地がいいからだろう。

私たちが今の社会に薄っぺらさを感じるのも、長い間築かれてきた土台が消滅してきているからだと思う。

 

シェアリングは、経済的な面で特典がなければいけないけれど、もう一つの面として、他人との親しみ・交流という面が重要だと思う。

シェアリングがこれからどういう方向に進んで行くか分からないけれど、シェアリングという発想、特に人との関わりとしてのシェアリングの発想は、漠然とした未来へ向けての舵の役割を果たすと思う。