ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

100 years ago

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昨日は、部下のミスの後始末で、本人ともども出勤した。

昼から長く伸びた髪を切りに行った。

ふと、髪を切ってもらっている最中、山口市に行ってみようかと思った。

結局、行かなかったのだが、行くつもりでいたので、新幹線で読もうかと思い、『文学界7月号』 を買った。村上春樹が久しぶりに短編を載せていたからだ。

 

今日は、それほど暑くなく、どちらかというと涼しい方で、部屋の中にいると、外を吹いている風が木枯らしのように思えた。

村上春樹の短編を読んでいると、木枯らしの音と相待って、昼間なのに、深夜に一人小説を読んでいた学生の頃のように感じられた。

文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 
理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

 

昨日から、たまたま手に取って読み始めた。

既読書なのだが、また一から読みたくなった。

しかし、恐竜は一億五千万年生きながらえて絶滅したことを知ると、人類もいつか絶滅するという運命を受け入れざるを得ない。

なにせ、種の99.9%が絶滅して来たのだから。

淡い恋愛模様も、上司の陰湿ないじめも、穏やかな土曜日の午後の微睡みも、泡沫のごときものとなる。全ては過ぎ去った時間の堆積の中に埋もれて行く。

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醍醐寺五重塔平安時代、西暦1000年くらいの頃の建造物である。

もう千年も経過している。これだけでも驚きである。

だから、一億年というレベルになると、これは人類の歴史を超えているというよりか、生命史レベルの問題で、こうした時間感覚を私たちが肌感覚で捉えることは難しい。

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アルゼンチンがアイスランドと引き分けた。

少し驚いた。アルゼンチンは弱くなったのか?

サッカーも日本に根付いてきた。Jリーグが始まった時は、やっと日本もと思ったが、小学生の頃など、野球しかなかった。私の受け持ち担任は珍しくサッカー選手だったのだが、体育の時間はサッカーかと思いきや、器械体操ばかりさせる先生だった。

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夜眠る前は、ヘッドホンをつけて音楽を聞きながら、眠くなるまで聞いているのが常だった。

最初はクラシックが多かったけれど、フォークやポップスやロックや色々なものを聞いて眠りについた。

ずっと書物を読み続けている夜もあった。風の音や雨の音が夜を通り抜けている。そんな時、物語の世界に入り込むことは、自分の体がどこか現実とは異なった場所に置かれている気がした。

仕事が嫌な訳ではない、生きるのが嫌な訳ではない、嫌なのは、単調な単層な世界に生きること。

私たちは決して、直線的な世界を毎日生き続けているのではない。私の中には、いくつもの異なった世界が並存し、並行して走っている。

私はそのいくつかの世界を同時に生きたいだけである。

山羊の頭のスープ

山羊の頭のスープ

 

 もう随分前に、ローリングストーンズは、『山羊の頭のスープ』というアルバムを発表した。

私も、長い間、よく聞いていた。その不思議なアルバムの世界に浸ることは、別空間への移動を意味していた。

ドラッグや宗教といった媒介を経ずとも、日常の少し先に異世界は開けている。

 

「どこに行きたい?」

「どこにも行けないよ」

「どこにも行けないから、どこにでも行けるんだよ」

深海

深海

 

 Mr.childrenも、『深海』から、複数の世界、闇の世界、異世界に接触する曲作りを始める。

 

連れてってくれないか

連れ戻してくれないか

僕を

僕も

 

それまでの単層的な曲から打って変わって、重みのある世界に移行した彼らは、新しい世界を畏れているようでもあり、惹かれているようでもある。

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怖がることなんてない。怖いのは分かる。けれど、

 

今のとき ときが今なら この今を

ぬきさしならぬ 今とするしか

村上春樹「石のまくらに」)

敢えて行動する

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今度の日曜日は父の日らしい。

正直に言って、全く興味がない。

私にとって、家族・父親・母親という存在は、空虚で、欺瞞がはびこり、でもそれらに帰属しているという、厄介な存在である。

 

世間では、「家族は仲良し」が最善の家族像のように語られる。しかし、現実の家族というのは、もっとザラザラした明け透けなものである。

私は、子供の頃、両親に大切に育てられた方だと思う。そのことに私はとにかく、感謝している。しかし、だからこそ家族の欺瞞性に敏感になっているのだと思う。

 

どういう家族が理想かと言えば、本心を素直にぶつけられる家族、子供のこと・親のこと、つまりは家族同士のことを、その場限りではなく、その先を考えて接することのできる家族が理想である。

 

やはり家族や両親のことを正確に語るのは難しい。簡単な言葉では表現することのできないニュアンスを語らないと、正確なことは語れない。

父親の成り立ち、母親の成り立ち、家族の成り立ちを、事細かに描いていかないと、正確な描写はできない。

 

一つ言えることは、大切な人と向き合って、その人のことを語るのは、とても力が必要ということだ。両足でしっかりと立ち、踏ん張って向き合わないと、本当のところは見えてこない。

大切な人のことを考えて語るだけでも、重労働なのに、その本人と直に向き合うのは、とてつもなく力が、勇気がいる。

だけど、それを敢行し、乗り越えていかないと、大切な人に接近することはできない。怖いのは分かっている。でも、やってみようと力を出すべきだと思う。

 

傷つくのが怖いか、傷つかないのが怖いか、正解がある訳ではない。どちらを選ぶかは、その人の生き方にかかっている。

舵を切り、舵を切り

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私が、何もかも忘れて没頭してしまう作業の一つは、編集作業だ。

特に、映像の編集は一度始めたら、早朝から深夜まで休みなく続けてしまう。

最近は、全くやってはいないし、現在手元には、iphoneがある程度である。

文章・画像・映像の編集。そこからは、思いもよらなかったフォルムが立ち上がる。

 

素材を作り出したり、集めたりするのも、魅力的だ。

ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』を一つの文章から風船を膨らますように書いたと述べていた。

想像力を喚起する文章があれば、そこから、未知の空間に向けて矢を放つことができる。

 

日本を旅し、世界を旅して、写真を映像を文章を作り出していくこと。

そうした時間が手に入れば、望外の喜びだ。

 

江東区墨田区の下町の雑踏、尾道の丘の上から見下ろせる瀬戸内の島々、鹿島神宮の大鳥居や笠間神社の静けさ、阿倍野区辺りの平凡な街並みから浮かび上がる人々の日常の佇まい、そうしたありふれた日常の姿から、私の視線を介して現れてくる非日常な異空間に接触することが出来れば、それは素敵なことだ。

 

今日も早く起きた。

早起きは三文の徳。午前3時の静かな世界に浸ることは、私の世界に浸ること。ヴィトゲンシュタインの魂の時間。

深夜に目を覚ました

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昨夜は、知らない間に眼鏡を外して寝てしまっていた。

深夜3時、目を覚ました。

自分がいつ寝たのか、全く覚えていなかった。起きたときには、何が起こっているのかも分からなかった。

 

いや違う。そうではない。何かが変化している。この部屋の中で、前とは大きく何かが異なっている。

 

変化のない日常。私たちを取り巻く環境は、平凡なままだろう。むしろ、変化を遂げるのは、私たちの方。

同じ日常に、変化を感じる瞬間。1日で新しい自分に変わってしまう日。そうした瞬間はあると思う。

私にも、そういう日はあった。

今また、突然、そうした瞬間が訪れてくれればいいなと思う。

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朝、ネットを見たら、W杯開催の文字が入ってきた。

そんな季節か。少しワクワクした。

 

明日は金曜日。

週末に向けて世の中が動いているように感じるのは、私がそう感じるからだ。

週末のない人もいる。週末にとらわれない人もいる。

世の中は、私で成り立っている。私以外に世界はない。私=世界。

雨、僕は水色の中に

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先日、仕事場で諍いがあった。

普段は仲の良い二人だが、環境や体調のちょっとした変化から、いつもは聞き流せる程度の一言が、聞き流せなかったようだ。

諍いは、仲が良いから起こる。関心のない間柄、表面的な間柄では、諍いなど起こらない。憎しみは愛情の一つである。

 

会社や学校など大多数の人間がいる集団では、複雑な人間模様が展開されている。

意外な人同士が繋がっていたり、小集団がたくさん存在したり、孤独なプレイヤーがいたりと、観察していけば色々なことが見えてくる。

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昨日も雨だった。そろそろ梅雨の季節だ。

雨の日は少し憂鬱だけれど、雨音は好きである。

 

私は雨が好きなのだろうか?

雨に関する記事を過去にたくさん書いていた。

 過去に書いた記事で、私がよく問題にしている雨の主題は、「雨を媒介にした越境」というものだ。

雨によって会社を辞めた、雨によって問題を起こしたなど、雨が原因で変化が起こること、雨を媒介にして心情の越境・変化が起こること。

 

天気には、晴れ・曇り・雨・雪がある。

その中で、雨と雪は、物体としてH2Oが登場する。視界が、晴れや曇りとは異なるレイヤーに移行する。

この大きな視界の変動によって、心情レベルにも大きな変化を引き起こすのではないのか?

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仕事がハードな時代、週末になると、時々、新幹線や列車に乗って、遠くの街にふらっと行ったりした。

溜まった仕事も、新幹線の中で片付けながら移動することで、気分転換と同時に気がかりな仕事を減らすことが出来て、一石二鳥だった。

私の方針は、原則、仕事は仕事場で完了させることであるけれど、例外が止むを得ず起こることはある。

残業を自分で管理してやりくりできる場合は、残業して仕事は全部やって帰っていた。

でも、そうではない下っ端の会社員時代だと、残業できない場合があるので、仕方なく自宅でやっていた。

友人にも、週末になると、必ず近場の海外に行くのがいたけれど、やっぱり仕事ってストレスが溜まる。

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気分転換レベルで済む場合は、大丈夫である。自分の力不足で仕事ができていなかったりするからだ。

問題なのは、自殺するレベルにまで追い込まれて、仕事と向き合わなければならなくなる時だ。

日本の会社の場合、上からの命令は有無を言わせない圧力があることが多い。

真面目である人ほど、真剣な人ほど、日本会社の陥穽に陥ってしまう。

 真面目な人ではなくとも、巨大な・強大な覆い物、会社・社会という天蓋、これに抗うことが不可能になってしまう場合もある。

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例えば、雨が、異世界へ・別世界へ開かれるきっかけとして機能することの社会的な意味。

それは、日本社会では重要な機能を担っているように思う。

現在の状況に縛られている必要はないし、突破口は必ず存在する。 

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梅雨だけではなく、農耕社会日本と雨は切っても切り離せない密接な関係にある。

天気雨、驟雨、霧雨、俄雨などなど、雨に彩られた我々の社会。

生真面目すぎる我々の社会。雨に、天候に、心模様を託して生きてみるくらいの方がいいのではないか。

 

今日は灰色

今日は灰色

僕は水色の中に

今日は灰色

 


RADWIMPS アメノヒニキク 【人間開花 ライブ音源】

砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ

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ずっと昔、まだ小学生の頃、秋頃だったろうか、夕方、自宅の庭から、見たこともない物体が飛んでいるのを目撃したことがあった。

それがどんな物体だったか、今ではうっすらとしか覚えていない。クラゲのような薄い白色をした飛行船のようなものだったと思う。

そばに妹もいて、一緒に見上げていた。なんだろう、今の?と言っているうちに、気がついたら消えてしまっていた。ただの雲だったのかもしれない。でも、確かに2人で目撃した。

 

遠い過去の記憶。

まだ言葉も喋れない頃に見た玉虫のことを、大きくなってから、その玉虫を一緒に見た祖母に話したら驚いていた。

記憶の保存場所が、どこかにあるのだろう。

 

私たちは、どこから来たのだろうか?

その記憶を遡って行ったところで、どこにも行けない。

父も母も、そう遠くない将来、存在を消してしまうだろう。

街は、古びた過去の綻びを身にまといながら、少しずつ変色していく。

 

19世紀後半、アルチュール・ランボーは21歳で詩を創作するのを辞め、武器商人になった。

彼にとって、人間世界は険しいものだったのだろうか。詩は、商売は、彼を何処かへ連れて行ったのだろうか。

深夜、耳を澄ませると、世界は停止してはいない。どこからか、何かの音が聞こえて来て、遠のいていく。世界から音はそう簡単にはなくならない。

ランボーは、砂漠の商人になった。砂漠には音はないのだろうか。風の音、砂の音、どんな音がするのだろう。

ランボーは黄色が好きだったという。jaune、

砂漠の色、詩の色、黄色、その色彩にランボーは自身の記憶を辿っていたのだろうか。

 

埼玉の狭山で、駅前の居酒屋に行ったことがあった。周囲にはそれほど店はなく、そのチェーン店の店がぽつんと一軒あるだけだった。

少しの間、その店で飲んで帰ったように思う。

普通の、日常の、ありふれた出来事。記憶ではあるが、記憶に値するほどではないちっぽけな出来事。

 

自己の一貫性は、記憶にあると言われる。

ブレードランナー』も「記憶」の映画だっだ。

しかし、記憶があるから、つまり自身の過去があるから、それに縛られて生きてしまうのでは、私たちは変わることができない。

「勇気」とは、「今を生きる」と同義語。

 

Ce qui embellit le désert, c’est qu’il cache un puits quelque part

what he thought, what he wrote

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体がこわばり、足が筋肉痛を起こし、首根っこが凝り固まって、鬱陶しくなる。

名古屋へ行き、晴天のもと、千種公園を散歩したら、そんな体の痛みも吹き飛んでしまうかもしれない。

朝から雨だった。明日は晴れるらしい。夜になっても、幽かに雨が残っていて、団地の遠くから、毎日よく泣き叫ぶ子供の声が、雨音に混じって聞こえてくる。

パソコンのデスクの前には、相変わらず、整頓されていない筆記具やら時計やら紙類や諸々の雑貨が、場所を占めている。

「整理は仕事が一段落してから」が、彼の口癖だった。これではいつまで経っても整理など覚束ない。

 

グスタフ・マーラーは「亡き子を偲ぶ歌」で、死んだ子は、晴れた日に散歩に出かけただけだと嘘ぶいた。

子供が亡くなったことを認めたくないのだ。親の気持ちが痛いほど伝わってくる。

そうした大きな痛手を負った人間は、そのことがそれ以後の人生の基調低音を形成するだろう。

戦争に行って戦友をなくして帰国した人たち。死んだ仲間のために自分は生きなければいけないと思われたことだろう。

今、一体、この幸せな世の中のどこに、痛手を負う場所があるのだろうか、彼は常々そう考える。

 

今日は、結構慌ただしく動いた。だけど、いつもみたいに眠くならずに起きていられる。人の体は不思議なものだ。疲れていないと感じた時の方が、反対に眠くなってしまう。

好きな人へのラブレターも書きたいけれど、本気でないといけない。ずっと、その人のことを考えているけれど、なかなか書けない。彼はいつも、仕事や勉強もそうすればいいのに、恋愛だけは真面目になれる。それはそれで、立派なのだろう。

 

彼に、生の基調低音はあるのだろうか?

衝撃的なインパクトは滅多に起こらない。大震災など滅多に起こらない。平凡な日常が続くだけである。その凡庸さからは自己の確固とした信念は簡単には生まれない。生まれつきの根性や頑固さを、基調低音と間違える向きもあるだろうが、性格はただの傾向に過ぎない。

 

南米の地は、大雑把な時間の流れに身を委ねている。

太陽が昇り、早起きの子供達が、朝から迷惑なサッカーゲームを始めても、イライラするのはアジアの日本人くらいかもしれない。

石畳の通りには、日の光が家々の形を映し出し、自転車でバス停へ向かう人たちや朝の礼拝に向かう人たちが、その影を浴びて消えて行く。

南米では、朝は、輝かしい時間だ。1日が始まる期待に満ちた時間。

 

お金など、必要最低限あれば生きていける。それよりも時間を与えてほしい。だけど、与えられた時間を何に使うか。あやふやなら、働いていた方がましなのだろうか?

南米人なら、時を幸せのために使うだろう。何が幸せなのか。彼らにとっては家族であり、仲間であるだろう。損得を抜きにした感情のために生きること、それは美しさの一つとして分類される。

 

もしも勇ましい男たちが

魔法の鈴を見つけたなら

たちまち敵を

苦もなくかき消してしまえるだろう

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