ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

月夜、涼しく静かな月夜

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はてなブログimacからログインできなくなってしまった。どうしてなのか調べてみないと分からない。

mac bookからだとログインできる。

 

しばらく風邪気味だった。私には珍しく昼から退社した日もあった。風邪薬を飲んで寝たら随分マシになったけれど、風邪を引く前から寝不足だなと思っていた。気温の変化も相まって、体が休めよと知らせてくれたのだろう。

 

imacを導入してからmac bookは遠出のときくらいしか使用しなくなった。でも、mac bookのキーボードはとても打ちやすい。指とキーボードが一体となってスイスイ入力できる。

 

ジャズやピアノは秋に似合う。部屋で流していると、季節の厚みがより感じられる。

昨日久しぶりに街に出た。人は多かったし、新しい店もできていた。

統計数字によって日本の姿を把握することも必要だけれど、街を行き交う人々の様々な表情から、彼らの日常や悩みを想像することも大切なことだと思う。

 

バブル期の豊かな日本からは想像もつかないほど貧困な国になってしまった。経済的な土台があって初めて人は次の欲望を満たそうとする。

毎日を生きるだけで精一杯の人で溢れている。

 

長い間、大阪のある街にずっと行けなかった。だけど、やっと昨日行くことができた。過去を過去として認めることが漸くできたのだろう。

街は大きく変わっていた。時の流れを感じた。今頃来たところで、もう昔の面影は剥がれ落ちている。

 

高齢になっても頑丈で二枚目の父親が転んで骨折した。

人はいつまでも元気な訳はない。随分前に吉本さんが海で溺れたときも、ああこの人も年なんだなあと感じた。

 

街も人も、変化していく。

あとで後悔しないように、出来ることは出来るときにやっておくのがいいのだろう。

だけど、フロイトが、父親が死ぬまでローマに行けなかったように、私も長い時間を経過しないと大阪の、とある場所に行けなかった。

後悔するとしても出来ないことはある。難しい。

洋上の人となりにければ

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しばらく更新していなかった。半月ほどしていなかった。私にしては珍しいことだ。

仕事が忙しい訳ではなかった。むしろ楽になってきていた。

夏の疲れで眠くなるのが早かったが、書く時間がない訳ではなかった。

忘れていたのでもない。結局、書く気が起きなかったのだ。

 

今年もまた、Mさんは東南アジアへの洋上の人となってしまった。

もう秋だ。秋は好きだが、ここ数年、秋が少し嫌いになった。秋になると彼女がいなくなってしまうからだ。

このこともブログ更新をしなかった理由だと思う。

 

もう10月だ。今年は台風が頻繁に到来する。

まだ秋晴れの穏やかな休日を経験していない。

ゴッドファーザー』を見た。随分昔の映画だ。だけど今でも色褪せない。

イタリア系マフィアの年代記。人は、家族という重くて軽い集団と分かち難く結びついている。それは普遍的なものだ。マフィアの家族を描きながら、問題はどの人にも当てはまる。

 

秋の到来とともに、寒さも顔を見せ始めた。

一斉に朝の空気が、朝の気配が、夕方の景色が、寒さを伴って少しずつ変貌していく。

しかし、今年は秋への変化の合間合間に秋雨が台風が顔を覗かせる。

大学2年生の秋に、初めて村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだ。

その年の秋も、雨がよく降り続いた。

夜、『世界の終わり〜』を読んでいると、雨が音を立てて雨戸を叩いた。

 

この小説を、私はしばらくの間、解読できなかった。その構成が全く理解できなかった。

現在のように解読本がある訳でもなく、大江健三郎が登場した時のように、分かりにくい小説はいつまで経っても分かりにくいままであり続けた。

村上の小説は文体の読みやすさとは裏腹に、非常に解読しにくい構成・内容なのだ。あたかも、Mr.Childrenが、その分かりやすい詩を描きながら、非常に歌いにくい音階を構成しているように、体に馴染むまでに時間がかかるのだ。

 

ともかく、2018年の10月となり、本格的な秋の到来となった。

平成最後の〜という言い方がされるが、私たちは平成30年よりも2018年の世界に住んでいると言った方が正しいと思う。

世界は分かち難く結びついていて、平成というのはその中のローカルな一つのシステム・リズムに過ぎない。

だけど、私はそのどちらにも全面的に組したくないと思う。どちらともまた別のリズム・時間感覚・生き方で歩んで行きたいと思う。

新しい空気を入れて

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今日、仕事があった。

早朝、いつもと異なる交通手段で通勤した。

普段は通らない民家の垣根や玄関のある通りを抜けた。そこはかつて、私も属していた空間だった。人のぬくもりの匂いがした。人が生きている感触が伝わってきた。

私も東京のいくつかの場所で、こうした風景に囲まれて暮らしていた。

一体、あの時の光景はどこに言ってしまったんだろうと考えた。

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昼から外部研修があったので、外出した。帰りに本屋に寄った。

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

上野先生が新刊を出されていた。 

先生の本にはほとんど接してきている。『構造主義の冒険』、『家父長制と資本制』などの初期の著作から、最近の『おひとりさま』シリーズまで、どの著作も無駄がなく本質的で、現実を見据えた内容であり、毎回切れ味鋭く、私には畏れ多い。

昔、一度先生の授業を覗いたことがあったが、しばらくして私にはこの講義は無理だと思い、教室を出た。というのは、ほんの少し話を聞いただけで、先生の性格というのか、生き方というのか、学問にかけるひたむきさというのか、そうしたものの圧倒的な迫力を感じてしまい、私にはこの人の空気を受けるには力が足りなさすぎると感じたからであった。

正直、その時はなぜ息苦しいのか分からなかったけれど、その教室にいることが耐えられなくなって、部屋を出たのであった。

後年、何かの雑誌かインタヴューかで読んだのだが、上野先生が若い頃にシカゴ大学に研究に行った時の話が載っていた。

その記事には、私は外国で日本語以外の言葉を使って研究者として生きていくことはできない、自信がない、と書かれていた。自分が自信を持ってやっていけるのは、日本語のお陰だからと書かれていた。

私は、この記事を読んだ時、あの上野千鶴子が弱音を吐いていたんだと知って、かなり衝撃を受けた。誰にも論争で負けたことがない先生が、弱音を吐いている。だけど、この人は正直だなと思った。そしてまた一層、その凄さを感じてしまった。

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今朝見た、昔懐かしい裏路地の光景。上野千鶴子のすごさ。

この二つは繋がっている。どちらも地に足をつけ、現実を見据えているという点で、共通している。

若い頃、特に学生時代は、未来に、社会に、希望を期待を持って生きている。それは社会を知らないからだ。私もそうであった。村上春樹の小説や上野千鶴子の研究書やレヴィ=ストロースの人類学を読みながら、社会や人やこの世について、何か分かったつもりになっていた。未来に明るい世界があるように思っていた。でも社会に出たらそうではなかった。

けれど、彼らの書物の中に、既に、社会についての世の中についての鋭い洞察や明確な事実は書かれていたのだ。私がそれを読み抜いていなかっただけなのだ。

 

そしてまた、書物にだけ現実が書かれているのではない。世間に社会に生きる無数の人々の声や動きや空気の中に、現実ということの姿は既に描かれている。

 

911、2018 平成最後の911

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8月は意外とブログを書いたからか、9月に入って時間は結構あるのに、それほど書こうという気にならない。書くネタはたくさんあるのだが、ネタがあるのと書く気になるのとは違う。強制的に書かなくてもいいから、書きたいと思うときに書くまでである。

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この頃は、列車に乗っている時が結構楽しいし、落ち着く。少なくとも1時間くらい乗れれば、寝たり本を読んだりしてまったり過ごせる。ガタンゴトンという列車の規則的な振動が心地いいのかも知れない。だから休日に台風や大雨で列車が運休・遅延してしまうと、がっかりしてしまう。

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今日たまたま聞いたら、来週いっぱいでまた外国に戻ると言っていた。いなくなると、やっぱり寂しい。いなくなったら暫くは元気が出ないだろうな。

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大小様々な問題を抱えて、齷齪毎日を過ごしている。

終わりなき毎日を終わりのある毎日に変換して過ごしている。

遠くで見た青い空も、昨日見た夕焼けも、その日その日の出来事として締め括られ、毎日は更新されていく。

ありふれた日々も、永遠の記憶として生き続いたら、私たちは豊穣になるのだろうか。

平凡な日常であれ、精神の混乱や諍いは、点として、ある時は線分として、私たちを畏れさせ、時めかせて、日々歩ませる。

音楽は社会の関数である

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今朝、たまたま耳にした音楽が、ルックの「シャイニオン」だった。

とても懐かしく思った。一度聞いたら忘れられない曲である。

もうとても前の曲で、1980年代頃の曲だと思う。

歌詞自体は、別れた女性が忘れられないという、ありふれた陳腐なものだが、この曲が優れていたのは歌詞ではなく、その旋律と歌声である。


LOOK - 「シャイニン・オン君が哀しい」 HD Live

曲が売れる売れないに関わらず、聴き惚れさせるためには、もちろん持って生まれた美声が必要だが、それと同時に、自分の守備範囲のオクターブの曲と自分の声色に合った曲を見つけることである。

残念ながら、ルックはこの曲だけに留まり、新しいヒット曲を世に送ることはできなかった。しかし、この「シャイニオン」だけであれ、ルックは後々まで残る名曲を生み出した。

自分は綺麗なものを綺麗だと感じることができると信じている。

自分の感性に従っているだけよ。

 

一般受けするかしないかに関わらず、まずは自分の感性に従って判断すればいい。

この曲は好き、この絵は嫌い、この人は好き、この漫画は嫌い、、、。

簡単な二分法で、好きか嫌いか、直感的に判断して決める。そのあとで、じゃあなぜ、私はこの曲が好きなんだろうと少し深く考えてみる。

考えれば、その理由が何か浮かんでくるだろう。歌声が好きなんだとか、旋律のこの部分が堪らなく好きなんだとか、より具体的に見えてくると思う。

 

そして、またそこから自分なりに考えを深めていくと面白いと思う。

私は何事によらず、こうした方法で、時間があれば考え事をしてしまう。

あの人は、ああいう言葉を、ああいう表情で言ったけれど、本心はどういうつもりだったのだろうとか、、、。 

音盤考現学 片山杜秀の本(1)

音盤考現学 片山杜秀の本(1)

 

音楽は時代の精神を反映している。

戦前の曲、戦後の曲、高度成長期の曲、音楽が細分化していく80年代以降の曲をそれぞれ聞いてみると、全く受け取る感じが違う。

音楽分析の書物は巷に数多くあるが、世間一般的には、音楽で世の中が分かるはずがない、漫画ごときで世の中が分かるはずがない、と言った意見が今でも多いのではと思う。

しかし、世にあるものは全て社会に属し、人が作り上げたものである。時代精神や社会情勢を反映していないものなど一つもない。

 

音楽は社会の関数であり、漫画は社会の関数である。

There is no such thing as coincidence.

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この世に偶然などない。全ては必然だ。

There is no such thing as coincidence.

 

大きな災害に見舞われたり、交通事故に遭遇したり、空き巣に入られたり。

 

もう随分前に、東京の青山に父親が来たことがあった。洒落たバーで酒を飲んだ。

何を話したか覚えていないが、父はご機嫌で、魔術のように夜は更けていった。翌日父親は帰っていった。

後にも先にもこんな風に父親と酒を飲んだことはない。何がそうさせたのか。

 

誰かと出会い、気になり好きになる。

最初はそうでなくても、感情が訪れて、好きになってしまう。

 

オウム真理教の人たち。彼らも真理を求め、希望を携えて、大志を抱いて宗教活動をしていたのだと思う。

でも、なぜああなってしまったのか。

 

全ては必然なのか。偶然ではないのか。

偶然と必然は出来事を観察する人の位置によって変わってしまうだけだ。

神にとって全ては必然だ。しかし、出来事に直面している人にとっては偶然だ。

 

男性は押し並べて出来事と直面しないで避けてしまう人が多いと思う。

反対に女性は出来事を直視し逃げないでぶつかっていく人が多いと思う。

この点で、女性の方が必然性を身に帯びようとしているように思う。

でもこれはどうしてなのだろうか。

 

漠然と思うのは、出来事を直視しないと女性は社会で生きにくいからではないだろうか。全てをあやふやの偶然に身を任せていれば、悪い方に転ぶかもしれない。

ならば、先手先手で、起きた出来事を直視して、正確に判断し、次の手を考える。その方が生きやすい。

私が出会った数多くの女性はみんな、必然性をおびき寄せる人たちであった。

もちろん男性でもそうした人はいる。男性でそうしたタイプの人は、生き方において優秀な人たちであった。でも、多くの男性はあやふやなまま生きていても許され、社会を渡っていける。

 

There is no such thing as coincidence.

全ては必然と考え、出来事を直視すること。

それは怖いことだろう。

だけど、その生き方のほうがかっこいい。 

昭和は遠くなりにけり

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ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこが逝去した。

平成とともに始まったアニメ版をよく見ていた。そこに描かれていたのは昭和時代であった。数年前に昭和が終わったから、懐かしさもなく、世間にはまだ昭和の名残があった。

昭和時代とは何だったのだろうか。平成が始まった頃には、はっきりとは分からなかった。

長渕剛は昭和が終わった直後に、「昭和」という曲を書いた。

 

傷つけば傷つくほど優しくなれた

貧しさは大きな力になり

意気地のなさは勇気に変わる

・・・

とうとう昭和の歴史が終わった

 

長い長い昭和の歴史。

傷つけば優しくなれ、貧しさも生きる力になり、意気地のなさも勇気になる。

マイナス面がプラス面に直結する時代、昭和。

素直、実直、真面目、正直といった言葉が浮かぶ。

昭和の歩き方は、真面目さがキーワードだった。

 

平成は、昭和とは連続する時代でありながら、そのカラーは異質だった。

平成の歩き方には、ひねり、軽さ、透明といった言葉が必要だった。

 

そして、おそらく、昭和から平成への越境は、1980年代のバブル期に徐々に行われたのだと思う。

 

今やもうすぐ、平成も終わろうとしている。

時代は、真面目さから軽さへ、そしてどこへ向かおうとするのか。

昭和は遠くなってしまった。