ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

第三惑星の呑気なGW

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長らく更新していなかった。

春が訪れ、桜を目の端にかすめながら、気がつけば春の嵐の後の葉桜を眺めみるだけとなった。

コロナ騒ぎで世間は右往左往し、右へ倣って、店の閉鎖や仕事の縮小が後を絶たない。

昭和天皇崩御のとき、世の中は自粛ムードで、元の社会に戻るまでに時間がかかった。

同じ出来事でも社会によって、それに対する反応が異なる。

イタリアで特に罹患者や死亡者が多かったのも、日本で死者が少ないのも、ウィルスに対する身体の抵抗力だけにあるのではないだろう。

地震原発・ウィルスといった大規模な被曝を伴う出来事に対して、日本人の対応は滑稽なまでにジタバタしている。首相や政治家だけがということではなく、日本人と名の付くメンタリティの滑稽さだと思う。

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スターウォーズ9が自宅で見られるようになった。

劇場で見た時と違い、作り込んであるなという印象だった。劇場では、雑な作りに思えた。

これはどうしてなのだろう?

理由は今はまだ分からないのだが、長く続いたサーガに奥行きが感じられたことは、最終章に相応しく、完結感がある。

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2015年公開の『アメリカン・スナイパー』を観た。

当時気になった映画の一つで、マックにダウンロードしておいたが途中までしか観ていなかった。

私には面白いと思ったものを後回しにして楽しむという癖がある。

この映画もそうであったか定かではないのだが、クリント・イーストウッドが監督をしたことに馴染めないでいた頃だから、観ずに放っておいたように思う。

 今回、観出して思ったのは、イラク戦争という現代の戦争を描いているのに、遠い過去の、ユダ戦争や古代ギリシアの戦闘を想起してしまうことだった。

過去の戦争を想起させるように、戦争・戦闘というものの普遍性、戦争に纏わる悲劇・悲しみが、この映画を通して伝わって来る。

滅多に体験できない戦争映画だと思う。

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四条柳馬場にあるジュンク堂京都店が2月いっぱいで閉店した。

この店のエスカレーターはビルの端に設けられていて、昇っていくと階下の外の景色が見える。これは池袋店と同じで、京都店にいると、エレベーターを昇る間は、池袋店にいるような錯覚がした。

書店が減っていくのは残念である。

そう言えば、京都に昔あった駸々堂という本屋もなくなってしまったし、河原町三条にあった丸善ジュンク堂と一緒になったし、縮小は止まらない。

私は買うわけでもないのに本屋に寄ることが多く、本屋に寄ることでホッとすることができるから、少なくなって欲しくない。

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刀剣乱舞が特集で取り上げられている。

艦これと同じノリであるが、かつてプロ野球カードやウルトラマンカードを集めていた世代にとっては、レアな刀剣を集めて、コレクション欄を埋め尽くすのが魅力なのではないだろうか。

ゲームそのものの面白さではなく、鍛刀して集める楽しみに惹かれているのではないだろうか。

宇宙兄弟(34) (モーニングコミックス)

宇宙兄弟(34) (モーニングコミックス)

 

 宇宙兄弟を読むと、学生時代・若かりし頃を思い出す。

夢にあふれていた時代。怖いものなどなかった。

夢はありますか?ガムシャラになれるものがありますか?

何歳になっても、若い時と同じトポスに立てるかどうか。

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コロナ騒動も収束する気配がない。

自宅や近郊で、休日を過ごすしかない。

猫を棄てる 父親について語るとき

猫を棄てる 父親について語るとき

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2020/04/23
  • メディア: 単行本
 

 村上春樹が新刊を出した。

雑誌掲載の際に読んでいたのだが、イラストと後書きつきで改めて読み返してみると、村上文学理解の一つになると思えた。

両親や兄弟のことは、なかなか公に書きにくいものである。

だから、村上春樹も書きたくても書けなかったのだろう。

 

今回の『猫を捨てる』は、村上春樹も普通のありふれた家庭に育ったのだなということがよく分かる文章である。

だが、そのありふれた家庭は、戦争という時代の刻印を通じて、戦争という特殊な状況を通じて形成されたということも、よく分かる。

 

我々は、普通のありふれた存在でありながら、いつもどこかで、特殊な回路と繋がっているのだ。それは、現実に起きなくても、可能性として常に存在している。