先日、自宅の自動車を久しぶりに運転したら、調子が良くなかった。
バッテリーランプが点灯しては消えていた。
ガソリンを入れるついでに併設の工場で見てもらったら、バッテリーは寿命で、他にもブレーキランプの片方が点灯しなかったり、タイヤも一つはパンク寸前で、もう一つも亀裂が入っていた。
とにかく、工場の人に説明を受けて全て交換してもらった。
私はこれまでに、交通事故も含めて、自動車・オートバイでは散々痛い目に遭ってきたから、早め早めに直しておくようにしてきた。
一度ひどい目に遭ってみないと実感できないと思うが、自動車に乗り始めた最初は、まあ大丈夫だろうと思ってしまう。
大学卒業と同時に保険会社の査定部に入社した私は、来る日も来る日も多くの自動車事故の損害額確定と示談交渉に明け暮れていた。
これが戦前の保険会社だと船舶保険の査定が仕事の大方を占めただろう。
戦後・高度成長期はモータリーゼーション真っ只中の自動車事故の時代。
船舶事故は少なくなり、火災事故は少なくなり、時代は大きく変化した。
現在は、自動車保険とともに、賠償責任保険が一頃よりも叫ばれる時代になってきた。
簡単なことでも自分たちで解決できずに、お上の判断に委ねてしまう。
小学生の頃、公園で友達とキャッチボールをしていた時のことだ。
私が投げたボールを友達が取れず、道路に止まっていた車にぶつかってしまった。
乗っていた若い男の人が車から出てきて、ひどく怒鳴り散らした。
友達は泣いてしまって、しばらく私たちは怒られ続けたけれど、すみませんと謝って帰った。
こうしたことは、私たちの日常風景だった。
だけど今は、公園でボールゲームをするなと張り紙がしてあったり、揉め事を避けて、外で遊ばせないようになってきた。
こうした行動、精神構造が一般的になってきた。
何かを自由にやるのではなく、人の目を避けて、人とのトラブルを避けて行動する。
そして、万が一、トラブルが発生した場合は、自分の判断ではなく、役所や先生や学校や上司や政府に丸投げしてしまう。
自分たちで解決策も出さずに、責任の所在・理由を他に決定させて、知らん顔をしている平気さが罷り通っている。
私が見た平成の都市。
そこでは少しずつ、知らず知らずのうちに、人と人との関係が希薄になっていった。
今後もこの関係性は進行していくだろう。
子供らを被害者に加害者にもせずに
この街で暮らすためにまず何をすべきだろう?
でももし被害者に加害者になったとき
出来ることと言えば
涙を流し瞼を腫らし
祈るほかにないのか?
私たちは、涙を流すことを忘れてはいないだろうか?
それは、人を大事に思い、子供を愛し、無償の慈愛に満ちた関係性を失っているからだろう。
涙は嘘をつかない。
止めどなく流れ出る涙は、理由は分からずとも、何らかの形をした優しさに根を持つ表現に違いないから。