まだ訪れたことのない山口市へ足を運んだ。
ホテルにレンタサイクルがあり、借りて気の向く方向へ自転車を走らせた。
亀山公園という大きな公園があり、走っていると山口県立美術館が見えた。
山口駅に降りて、あっと思ったのは、町が石鹸というか洗濯後のような匂いがしていることだった。
町の匂いというのはある。
東南アジアだと、空港に着いたら、魚醤の匂いがしたり、住んでいる人たちは気がつかないが、匂いのする町はある。
公園の頂上にザビエル記念館があった。
1550年(天文19年)11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い、同年12月17日に周防を発つ。
京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。
1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。
それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。
献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。
ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。
ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師ロレンソ了斎となった。
ウィキペディアによる山口におけるザビエルの記述です。
無許可で宣教活動、、、
男色を罪とする教えに大名が激怒した、、、
物に吊られて宣教を許す、、、
2ヶ月の宣教で500人の信者獲得、、、
盲目の琵琶法師の存在、、、
夜店が出て、神輿を担いで町を練り歩く人たち。
なかなか迫力があった。
逞しい男性の担ぐ神輿はダイナミックで、学生時代の体育会の雰囲気がした。
二両編成の山口線
手動で扉を開けるタイプで、乗客はそこそこいるが、ギューギュー詰めではない。
新山口から益田まで往復している。
確か、宇部線だったと思う。
行ったことのない町に行くのは楽しい。
そこがどんな町であれ、興味深い。
永六輔「遠くへ行きたい」は、短調の物悲しい昭和の歌であった。
令和の世には、新しい曲調の、旅の歌が望まれる。
ここから離れた遠くへ行きたい、だけど、ここが嫌いな訳ではない。
ここを見直すため、ひと時の余韻に浸りたい。