今年の梅雨は、あまり雨が降らないなと思っていたが、梅雨も終わりに近づいてきて、思い出したように大雨が続く。
大雨の後は、視界が透明になる。視力が良くなったのかと錯覚するほどに、遠くまで澄み渡った景色が目に飛び込んでくる。
遠い昔の奈良時代、空気は澄み、雨が降った後は透き通るほどに、寺や神社の緑が際立って美しい色彩を発露しただろう。
雨は、景色を人を、浄化する。
今日も帰り、土砂降りにあった。
さすがに歩けないくらい猛烈に降り続いたので、しばらく会社の中で雨宿りしていた。
雨よ降れ降れもっと、全てを流してくれ
雨の音は好きだ。
ゆっくりと文章を読むように、ゆっくりと音楽を聴くように、時間が流れていく。
ぼんやりとした微睡みの中で、昨日のことが明日のように思え、数年前のことが昨日のことのように思え、時間が混濁していく。
時間があるのではなく、混沌とした中に、無理やり一本の線を引いているだけだ。
今という瞬間に全てが凝縮されても、今という瞬間が空白になっても、その瞬間に溶け込んでいたい。
雨は時間を曲げ、空間を曲げて、私たちに新しいステージを見せようとする。
街がざわめき、光が煌めき、何かしら夢のような空間が広がる。
私が遭遇した記憶的な雨
関東平野の真っ只中で出会った大雨
バンコクのワットアルンで出会ったスコール
どちらも瞬間的な大雨で、その後、嘘のように雨は止んだ。
関東平野の大雨は、自転車に乗っていたからずぶ濡れになった。
バンコクのスコールは、寺院の中に身を潜めたから無事だった。
私は今でもこの二つの雨のことを、その情景とともによく覚えている。
後年、たまたま聞いたradwimpsのアメノヒニキクに出会った時、この曲の大雨の洗練されたイメージが、この二つの雨のイメージと重なった。
自動車の窓から見える月明かりに照らされて、個人経営の学習塾の看板が見えた。
大手の保険会社もひっそりと静まり返っていた。
チェーン店の24時間営業の飯屋の灯りがついていた。
そうした場所で働いている人のことを想像すると、何か物悲しくなった。
近頃、ゆっくり落ち着いて、あれやこれやと考えたいことを考えてみようと、いつも思っていたけれど、時間がないのではなく、私が労働者としての時間感覚で生きていることが、落ち着ける時間を作ることを阻んでいた。
今日1日、ボッーとして過ごしていたら、仕事ではない時間感覚が蘇ってきた。
それは高台から、遠くの雲の広がりを見渡すことであり、町の密かな風景に目を向けることであった。
眠気が取れたから落ち着いてことが運べるわけではない。
雨が、大雨が、異世界への通路を開いてくれる 。
ザンザカザンとさあ ザンザカザンとさあ