大雨に見舞われた京阪神地区は、昨日から降り続く雨の影響で、JRはほぼ全線操業を停止した。京の町は、それほどいつもと変わる気配でもなく、ただ大雨で観光客の出足は減り、地元の人たちは、あまり見たこともない鴨川の氾濫のごとき風景に釘付けになっていた。私もその一人だった。
豪雨に驚いていたら、それを掻き消してしまうニュースが飛び込んできた。
オウム真理教の麻原彰晃はじめ、幹部6人が刑に処されたというニュースだ。
LINEニュースで知った時は、信じられないと思った。
もちろん、彼らは日本では死刑に値する事件を起こしてしまった。だから、死刑となっても仕方がない。でも、この事件は、悪人が人を殺して死刑になりましたというレベルの事件ではなかった。
当時の、そして現在も、日本が抱えている闇を映し出した事件であり、日本社会が何者なのかを知ることのできる合わせ鏡のような事件であった。
1995年事件当時、大澤真幸は「妄想の相互投射」という概念で、当時の社会状況を言い当てた。
要するに、オウムと私たちは、合わせ鏡のように相手のことを妄想しあっていて、その点で、お互い相手の現実の姿を理解してはいないのだ。
増水した鴨川。
かつて三条河原は下手人の処刑場であった。
鴨川を見下ろす私の目に、遠い昔の散りゆく数多の処刑を待つ下手人の姿と、日本全国で処刑を待つオウム幹部たちの姿が、二重写しになった。
上九一色村のサティアンに潜んでいた麻原が警察に連行された時、茨城県のある街に偶然きていた私に、そのニュースを聞いたあるレストランのマスターが「狂った宗教もやっと捕まりましたね」と得意げに語ったのを、今でも忘れることができない。
そのマスターは、料理一筋の普通の一般人である。そうした人の言説の中に、「妄想の投射」はありありと浮かんでくる。私の父親にしてもそうだし、世間一般にそうである。
しかし、事の本質はそうではない。オウムを産んだのは私たちであり、私たちがオウム的だと言っても間違いではない。事件は社会を映し、社会は事件を通して、その真実の姿を現わす。
1995年、阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こった。2018年、記録的な大雨とオウム幹部の死刑が起こった。
自然災害と事件は何の因果関係もないが、レイヤーの異なる出来事であれ、この世界にある出来事として、垂直には何らかの繋がりがあると言える。
それを、「自然災害は事件の隠喩だ」として処理することもできる。
しかし、大きな自然災害は死へと近接し、大事件も死へと近接する。この点で、世界の中の現象として死へと向かう出来事は、私たちに同値レベルの反応の触覚をもたらす。
死という生々しい現実に、大災害や大事件は私たちを接触させるという点において、垂直的な連関があるのだ。