何のためにブログを書いているのか?
私は少なくともある人のために書いている。その人と関係のない内容であっても、その方が圧倒的に多いが、その人のために書いている。
その人が読んでいるかどうかは分からない。でも書いている。
勿論、文章を書くのが好きだから書いているという面はある。しかし、ただ文章を書くということはできない。文章はいつも誰かへ宛てたものである。
先日、仕事帰りに本屋に寄った。見田宗介の新刊が出たからだ。
見田先生も高齢で、もうそんなに書籍も出版されないだろう。寂しい限りである。
見田先生の数々の名作に影響を受けた人は多いと思う。
コンパクトながら、内容の凝縮された新書で、未来へのイメージや示唆に満ちたものである。
3月に東京へ行った時、何となく電車に乗って行った先は、葛飾区金町駅だった。
私は下町に長く住んでいたから、葛飾区・江戸川区・江東区・足立区などに親近感があった。江戸時代から続く昔の街の残響が感じられて、東京でありながら、時間がどことなくゆったりと流れて行く感じが好きだった。
だから、自然に任せて辿り着いたのは、やはり下町だった。
金町も好きな町の一つである。何かがある訳ではない。だけど、そこには下町にしかないリズムがある。
江戸川の長く続く河川敷を越えると、すぐに千葉県に入り、常陸国へと続いて行く。駅前近くから長く一直線に伸びる柴又街道は、ずっと先の江戸川区まで伸びていて、この街道を一体何回通ったことだろう。
今いる町は生れ故郷とは言え、住んでいたのは、もうずっとずっと昔のことだ。
慣れてきたとは言え、どこか他人行儀な町というイメージが付きまとう。
私の故郷は、もう東京になってしまっているのだと思う。
遠い異国の地で、生涯を終えた人たちは、故郷への思いをどうやって断ち切ったのだろうか。
今いる場所で生きるしかない。それが現実というもの。100%満足して生きて行ける訳ではない。
オウム真理教に代表されるような新々宗教は、嘗て、胡散臭い集団という印象を免れなかった。
ものみの塔、幸福の科学、統一教会、創価学会、なども、そうした印象があった。
私も、若い頃、こうしたいくつかの組織に接触したことがあったが、その中で活動している人の精神に違和感を感じた。
あれから何年も経ったが、現在も、周囲で新々宗教に所属している人に出会うことがある。
だけど、現在の印象は以前と随分違ってきた。
言わば、地域社会の延長で組織に参加しているという印象、創価学会が典型だが、お隣さんも入っているし、くらいの気楽なノリで参加している人が多いと感じる。
だから、やはり日本には宗教というものは根付きにくいのかなと思う。
宗教集団というのは、一種の革命組織と言える。この社会はおかしい、間違っている。だから宗教の力で革命を起こそう。宗教組織は反社会的であるのが、一般的である。
だから、地域社会の延長に宗教集団があるのなら、それは、日曜学校やサークル活動と変わりがない。
しかし、だからと言って、現在の新々宗教を否定している訳ではないし、そもそも宗教自体が革命的な力を装うものではなくなってしまった。
音楽・自動車・サッカー・演劇に惹かれる人と同じように、たまたま宗教に惹かれただけで、ただそれだけの話である。
私が学問や音楽や映画にこっぴどく惹かれるのと同じである。学問に惹かれるのが高尚な訳がない。
長崎に行って思ったのは、宗教が根付いている町というのも素敵だなということであった。
百花繚乱。どの花も咲き乱れたら、素敵なものである。
億の巨匠が並んで生れ
しかも互いに犯さない
他人を侵食しないことを条件にするのであれば、何かをやっていけないことはない。
することも、しないことも、ともに自由な世の中であれば、こんなに素晴らしいことはない。
宗教も、生きがいも、住処も、何を選択しても良い自由な社会。