今月初め、中米グアテマラでフエゴ山噴火により、多くの犠牲者が出た。
グアテマラは火山大国で、古都アンティグアや新都グアテマラシティに滞在していると、地元の青年が火山見物はいかがですかと勧誘に来る。
火山爆発も多いし、地震も多い。街には至る所に、地震の爪痕が残されている。なかなか復旧できないのだ。
仕事場にいた私は、大きめの揺れを感じて、珍しく大きいなと思ったが、予想以上に被害は甚大だった。
関東地方に住んでいると、地震は頻繁に起こるから、今日くらいの揺れだと大して驚かない。
でも、さすがに東北大震災の時は驚いた。道路を歩いていたのだが、急に道路が傾いたように大きく揺れて、転びそうになった。パチンコ屋やラーメン屋から、人が青ざめた顔で飛び出してきたのを見た。
大地震が起こると、あたかも目の前に大魔神が登場したように、私たちは為すすべもなく、地震に跪くことになる。
それは、避けることのできない出来事であり、目の前が大きく変化してしまうのを、ただ呆然と見つめているしかない。
親が亡くなった、大失恋をした、交通事故にあった、などの、その人を変えてしまうような出来事と同じくらいのインパクトが、大地震にはあると思う。
阪神大震災は戦争のようだったと、戦争体験者は語っていた。
大地震は、地下からの攻撃によって街が崩壊し、焼け野原になる。まさに戦争だ。
大きな力の前に、人が死んで行き、抵抗する術もなく佇んでいる経験をしたならば、まやかしや格好付けではなく、自然と人は、確固とした何らかの決意を抱くようになるのではないか?
私が実際に経験した訳ではないから、本当のところは分からない。でも、想像するに、人が死んで行くのを堰き止めることもできず、ただ無力でいるしかなかったなら、その人はその無力さの反作用として、心や行動に変化が起こるのではないか。
「UFOが釧路に降りる」で、主人公・小村の妻は、大震災のあと5日間、地震のニュースを見続けた後、忽然と姿を消した。
問題は、あなたが私に何も与えてくれないことです、と妻は書いていた。もっとはっきり言えば、あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつないことです。あなたは優しくて親切でハンサムだけれど、あなたとの生活は、空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいでした。
地震が起こらなかったら、小村の妻は、このことに気がつかなかったかもしれない。地震が彼女の無意識の扉を叩いたのだ。
そしてまた、小村も地震と妻の失踪をきっかけとして、遠くまで辿り着くことになる。
日常を非日常へと変える大地震
それはカタストロフィックな街の崩壊だけではない。
人を変える、人を非日常へと連れ出す。