先日、仕事場で諍いがあった。
普段は仲の良い二人だが、環境や体調のちょっとした変化から、いつもは聞き流せる程度の一言が、聞き流せなかったようだ。
諍いは、仲が良いから起こる。関心のない間柄、表面的な間柄では、諍いなど起こらない。憎しみは愛情の一つである。
会社や学校など大多数の人間がいる集団では、複雑な人間模様が展開されている。
意外な人同士が繋がっていたり、小集団がたくさん存在したり、孤独なプレイヤーがいたりと、観察していけば色々なことが見えてくる。
昨日も雨だった。そろそろ梅雨の季節だ。
雨の日は少し憂鬱だけれど、雨音は好きである。
私は雨が好きなのだろうか?
雨に関する記事を過去にたくさん書いていた。
過去に書いた記事で、私がよく問題にしている雨の主題は、「雨を媒介にした越境」というものだ。
雨によって会社を辞めた、雨によって問題を起こしたなど、雨が原因で変化が起こること、雨を媒介にして心情の越境・変化が起こること。
天気には、晴れ・曇り・雨・雪がある。
その中で、雨と雪は、物体としてH2Oが登場する。視界が、晴れや曇りとは異なるレイヤーに移行する。
この大きな視界の変動によって、心情レベルにも大きな変化を引き起こすのではないのか?
仕事がハードな時代、週末になると、時々、新幹線や列車に乗って、遠くの街にふらっと行ったりした。
溜まった仕事も、新幹線の中で片付けながら移動することで、気分転換と同時に気がかりな仕事を減らすことが出来て、一石二鳥だった。
私の方針は、原則、仕事は仕事場で完了させることであるけれど、例外が止むを得ず起こることはある。
残業を自分で管理してやりくりできる場合は、残業して仕事は全部やって帰っていた。
でも、そうではない下っ端の会社員時代だと、残業できない場合があるので、仕方なく自宅でやっていた。
友人にも、週末になると、必ず近場の海外に行くのがいたけれど、やっぱり仕事ってストレスが溜まる。
気分転換レベルで済む場合は、大丈夫である。自分の力不足で仕事ができていなかったりするからだ。
問題なのは、自殺するレベルにまで追い込まれて、仕事と向き合わなければならなくなる時だ。
日本の会社の場合、上からの命令は有無を言わせない圧力があることが多い。
真面目である人ほど、真剣な人ほど、日本会社の陥穽に陥ってしまう。
真面目な人ではなくとも、巨大な・強大な覆い物、会社・社会という天蓋、これに抗うことが不可能になってしまう場合もある。
例えば、雨が、異世界へ・別世界へ開かれるきっかけとして機能することの社会的な意味。
それは、日本社会では重要な機能を担っているように思う。
現在の状況に縛られている必要はないし、突破口は必ず存在する。
梅雨だけではなく、農耕社会日本と雨は切っても切り離せない密接な関係にある。
天気雨、驟雨、霧雨、俄雨などなど、雨に彩られた我々の社会。
生真面目すぎる我々の社会。雨に、天候に、心模様を託して生きてみるくらいの方がいいのではないか。
今日は灰色
今日は灰色
僕は水色の中に
今日は灰色