今年も残すところ、あと半月ほどである。
今年は何があったのだろうか?
平凡な日常が続いているから、いったいこの一年、身の周りで何か変化があったのか、分からなくなる。
このブログを見返してみれば、そう言えば、これは自分にとっては事件だったなと思うことがあるかもしれない。でも、今思い出そうとしても、別段変わったことは思い出せない。
来年は、本や音楽や映画にお金をかけるのを減らして、極上に美味しいものを食べるのにお金を配分したい、と思います。
特に本は、これ読みたいと思って買うのだが、そんなにたくさん買っても、一気に読めない。音楽や映画は、それほど見たりするのに時間がかからないけれど、本と同様、衝動買いしてしまいがちである。
鰻にしろ、ハンバーグにしろ、パスタにしろ、極上に美味しいものを適度に食べたい。馬鹿喰いするのは止めて、食を味わいたい。
ここ数年、ずっとなのだが、宗教の問題が、喉に刺さった小骨のように気になっている。私は無宗教なのだが、実家は多くの日本の家同様、仏教の檀家である。
過去に、特定の宗教に関わる切っ掛けがなかったわけではない。
けれど、宗教に吸引されることは結果的になかった。それは、出会った宗教に説得力がなかったからだと思う。
私の考える本当の幸せは、宗教にはないと思えた。若いときには宗教に魅力を感じた瞬間もあったが、それは世俗的な生活に嫌気がさしたからであって、宗教に積極的な魅力があったわけではなかった。
ただ、私は宗教を奉じて生きる人を否定するものではない。それは、どの人も何かを信じて生きているという意味において、宗教的な存在だし、私も特定の学問を心の拠り所にして生きているから、宗教を否定することは自分を否定することでもある。
クリストファー・ノーランの『ダンケルク』が、早速配信されている。
結局、映画館には足を運ばなかったが、気になっていたので、配信日当日に鑑賞した。
実話ということもあって、これまでのノーラン作品と比べて、ストーリーが分かりやすい。
今回の目論見は、脱出劇を肌で体験・体感することにあるのだろうか。
大画面でしかもIMAXで鑑賞したら、大迫力の臨場感を持って現場を体験できると思う。
過去を、実際の出来事を、忠実に再現することはできない。私たちは自分の設計図に沿って、過去を創造できるだけである。
そういう点では、ノーランの設計者としての映画製作は、明瞭な意志のラインが通っていると思う。こうしたい、こういう設計図で作りたいという意志が明確だ。
宗教を奉じるにしろ、映画を製作するにしろ、仕事人・労働者として生きるにしろ、学問に仕えるにしろ、強い意志と優れた設計図の元でやって行きたいものだと思う。