また、金沢へ行こうかと思って、地図を見ていたら、福井市が目に入った。
もうだいぶん前に、友人の結婚式に福井市まで出掛けたことがあった。
その時は、なぜか小松市の空港で降りて電車で福井市へ向かった。小松市は福井市から結構あるけれど、おそらく東京から福井へ行く最短コースだったのだと思う。確か、友人が交通費も出してくれて、その経路を指定して来た記憶がある。
その時、永六輔の娘さんを見かけた覚えがある。有名人には空港でよく出会う。その昔、フランキー堺を見たし、高島忠夫一家を見かけたこともある。
ともかく、石川県・福井県といった北陸地方へ行くには、今では新幹線も開通したが、やはり何処と無く不便さが漂う。
実際、金沢市までは簡単に行けても、そこから観光地へ行こうとするとサクサクとは移動できない。
これが山陰地方の鳥取県や島根県になると、かなり厄介である。そこまでの移動も、そこからの移動も1日仕事になる。
しかし、居住となると話は別で、地方都市に住むのも良いものである。
水戸市の薄く暮れゆく夕方、関東平野に少しずつ日が沈んで行く。千波湖から烏が数羽飛び立ってねぐらへと急ぐ。
岡山市の暮色はまた違う。夕方、家路へ帰る人の群れ。プルーストに出てくるような夕方のまったりとした時間帯。
人は日々、記憶を生み出し、それをいつまでもいつまでも脳裏に収めておく。
いくつかの異なった時間を生き、また過去の似たような時間が回帰し、過去を生きることもある。扁平な現在の時空間が、過去の記憶とともに膨らみ、厚みを帯びて、現在を豊かな、けれど時には悲しみを伴った時空間に変換する。
悲しみも喜びと同じく、またそれ以上に、現在を膨張させる豊かな要素だと思う。
文学の世界に足を踏み入れると、仮想的に、多様な社会・生を生きることができる。
あの人は異国の地でどうしているのだろう?
いつも気になっている。
人の感情は、打ち寄せる波のように、高まったかと思うと治ったり、治ったと思ったら何かの弾みで高まり、胸が詰まりそうになったりする。
今日は仕事に出た。所属する部門が場所移動するためだ。すぐ側なのだけれど、大掛かりな移動だった。
我々の部門も、来週から、私の中では第3章という新章に突入することになる。
行きたいところに行く。それが私の流儀。