「昨夜見た夢の中の僕は兵士
敵に囲まれてた
だから仕方なく7人の敵と吠える犬を撃ち殺して逃げた」
これは、Mr.Childrenの「Fantasy」に出てくる歌詞の一部である。
この歌は、現実と幻想・空想・Fantasyが交互に顔を出す歌詞進行で、上記の部分は、もちろん空想の部分である。
現実の中にFantasyを描いて生きていこうと標榜する隈取りで、ツマラナイ日常に風穴を開けて進んでいこうと宣言している様子だ。
何となく聞いていたこの曲だけれど、毎回、夢の中の兵士のイメージが、痛く気になった。
人も犬も殺したくない。けれど、自分が生き延びるためには撃ち殺す以外にない。
三島由紀夫の『仮面の告白』の初めの方に、大蛇か何かに飲み込まれて殺されてしまう王子を空想する、主人公の描写があったけれど、敵に囲まれたり、大蛇に狙われたりした人物に対して、本人でない人たちの多くは、心の中ではおぞましい方の結末を望んでいるのではないだろうか?
Mr.Childrenの兵士の歌詞は、兵士となった僕本人の切羽詰まった情景が描かれていて、生死のルーレットを回さなければならない場面に出くわした人の行動が、臨場感を持って描かれていると思う。
この部分が、鬼気迫る臨場感で筆致されているのはどうしてなのだろうか?
おそらく、この部分には、空想・夢の中に、現実が紛れ込んでいるからだと思う。
人を殺したら赤い血が流れる。象を殺したら血が流れる。
7人の敵と吠える犬を撃ち殺したら、血が吹き出ただろう。
そして、その犠牲のおかげで、僕は逃げることができた。
空想と言えど、現実と交差する場面は多々ある。その場面で、現実に急接近する空想シーンは、死へと直結する場面だろう。
その生死の狭間の場面では、現実と空想が反転し、空想が恰も現実であるかのように錯覚してしまう。
夢の中で、ビルから落ちていくシーンに出くわしたことはないだろうか。その時、人は驚いて目を覚ます。
夢だったのかと、ホッとすると同時に、今見ていた夢は現実のようだったと感じるだろう。
空想は現実を構成する。そしてまた、現実は空想を構成する。
空想も現実も、虚構も現実も、単に相反するのではなく、人が直面している世界の構成要素として、交わり、反発し、補強し合いながら、世界のありようを映し出している。