これまでに何度、夕暮れを見たことだろう。
夕暮れはたまたま見られることもあるけれど、意識してみようとしないと、なかなか見られないものだ。
会社の建物の中にいれば、夕方になっても外に出ないから、そう見られるものではない。
昔、夕方車を走らせて、週に3日ほど千葉県に向かうことがあった。その時は、決まって夕日に出会えた。
関東平野の涯に、巨大な夕日を見たこともあった。大きな大きな夕日だった。空が真っ赤に染まっていた。
原初の宗教的な萌芽の対象には、太陽もその一つとしてあった。赤く、暖かく、手に届かない超越的な存在。エジプトなどでは、太陽神が崇められた。宗教としての対象が、目に見える形で存在している。日本の八百万の神もそうだが、目に見えるものとしての神様。こうした宗教は分かりやすい。目の前のものを有難がって信仰すればいいのだから。
難しいのは、より進んだ高度な形態の宗教だ。
キリスト教もその一つだが、イエスや聖書の存在によって、幾分分かりやすくはなっているが、抽象的な神というものを信仰する構造というのは、考えてみれば、論理的に説明しにくいものである。
少し見え方が違うが、恋愛という現象も、宗教と似ている。
恋している対象が目の前にいるから、太陽を信仰しているのと同じで分かりやすいけれど、よく考えてみれば、私たちは恋愛対象の何に惹かれているのだろうか。
見た目や性格、声や雰囲気などに惹かれているのだろうか。一次的にはそうだろう。一目惚れというのも、見た目の美しさに引き寄せられたものである。
キリスト教と比較して考えると、聖書の言葉に惹かれてキリスト教を信仰しているとして、その人は聖書の言葉を信仰しているのだろうか。いや、聖書の言葉を媒介にして、神という抽象的な存在を信仰しているのではないだろうか。
恋愛も、恋愛対象を媒介として、その対象のうちに見られる愛という目に見えない存在に惹かれているのではないだろうか。