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ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

銭湯に、垢抜けしない時代の日本を見る

日常

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風呂がまだ修理できておらず、仕方ないので近所にある銭湯に行った。

銭湯、スーパー銭湯、温泉など外湯に入るのは久しぶりなので、いつもと違うなあ、みたいな感じだった。

私はそもそも、お風呂が嫌いではないのだが、お風呂に長く入っているのが苦手で、温泉に行っても、わずか20分くらいで上がってしまう。自宅のお風呂に入っているのと同じである。

 

本日、久しぶりに銭湯に行って、何というのか、大袈裟に言えば世間というか世の中というか、そういうものに触れた感じがしました。

毎日、仕事に行って、電車に乗って世間と接触してる訳だけれど、銭湯に行くと、また普段とは異なった人たちに出会える。普段、接触できない人と接触できる。

今日行った銭湯には、お年寄り・刺青の人・番台にいるやけに高齢のおばあさんなどがいた。

それほどいつも歩いていて出会う顔ぶれと違わないとも言えるけど、刺青の人に出会うことはあまりないし、風呂場という裸の付き合いの場だと、普段見ている人でも身近に感じられてしまう。

 

言いたいことがうまく表現できないのだが、私が子供の頃に行った銭湯には、刺青の人だけでなく、見るからに一癖も二癖もある人が来ていて、大声で演歌みたいな歌を歌う人もいて、銭湯という場自体が、社交場というか、色々なものが混濁した空気を醸し出していた。

その空気は、今日行った銭湯にもやっぱりあって、会社などの、取り澄ました人たちがいるだけの平板な場とは違った空気が支配していた。

 

芥川龍之介が『戯作三昧』の中で銭湯に通う滝沢馬琴のことを書いていたけれど、銭湯という場は、江戸時代や、そこまで行かずとも昭和・大正・明治の、日本がまだ泥にまみれていた時代を想像させるのに打ってつけの場、そうしたものを想像できる最後の場なのかなと思う。

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

 

 『テルマエ・ロマエ』ではないが、銭湯という文化は日本らしさの象徴と言えるのではないだろうか。