現在では、世界のクロサワとは黒沢清のことである。
戦後、日本映画界を牛耳った天皇クロサワは、多くの傑作を残して映像ストレージの住人となった。
黒沢清は、現代人が見落とし、零れ落としてしまいそうな感情や行動や息遣いを、切り取って映像化する。
『クリーピー偽りの隣人』はクロサワお得意の異常心理ものである。
未解決の殺人事件。犯人は隣人になりすまし、複数の場所で人を殺める。
犯罪心理学者の元刑事・高倉。彼の隣人として、日野市殺人犯・西野が現れる。家族を乗っ取る巧妙な手口。
あの人はお父さんじゃないの。そう告げる娘も、犯人の思い通りに動いてしまう。
終盤で、悪が勝利し善が負けたのかと思われる。
犯罪心理学者も犯人の手に落ちたのかと思われる。
しかし、最後に逆転劇が待ち受けている。
だが、この逆転劇は必要なかったのではないだろうか。
というのも、この犯人・西野は現実的な存在だが、犯罪心理学者・高倉はどうだろうか?非現実的な存在ではないだろうか。
この映画に描かれている犯人像は普通に出現するタイプだ。けれど、その犯人の裏をかき、犯人を抹殺してしまう元刑事の犯罪心理学者がいるだろうか。
ともかく、ラストシーンで描かれているのは、よくある勧善懲悪の世界への回帰である。悪は滅ぶべきであり、良きものが勝利を勝ち取る。
しかし、果たして犯人は悪であったのか?
元刑事の妻も、犯人の術中に嵌り、元刑事を犯人側へ引き入れようとする。それは、元刑事夫妻だけでなく、私たち誰もが心の綻びによって、吸引され引き金を引かれれば、容易に日常生活から転落してしまう危うさを孕んでいることを示している。
犯罪はその社会と無関係に起こるのではない。犯罪は社会の関数である。
だから、ある犯罪者の心理というのは、どの人にも気づかず萌芽的ながらも芽生えている感情であると思う。
クロサワは、おそらく、このストーリーを勧善懲悪の物語に、故意に回収させたのだと思う。
元刑事が犯人の手中に落ちる方が、しっくりくる。
けれどそれを強引に善悪の物語に落とし込むことで、あったかもしれないもう一つの結末をより印象づけようとしたのではないだろうか。