映画「二重生活」を少し見だして、そこに描かれている風景・生活が、私には後に残してきた景色に写った。今の私の生活は虚構・嘘の生活に思えた。
長年の東京暮らしが骨身に沁みているからだろうか、画面に映し出された東京のよく知る風景は、懐かしいというよりはそこが本来の私の居場所だという感覚を与える。
寂しいと思った。東京に自分が今いないことを寂しいと思った。
訳もなく過ぎ去っていく人の群れ、タクシーに乗って走り去っていく乗客、静かな住宅街をゆっくりと過ぎていく女の子。
「二重生活」は、私たちが生活しているリズムで、登場人物の日常が描かれている。
二重生活なんて、誰もしたくない。けれど、二重生活は東京の風景に溶け込む。二重生活は東京によく似合う。
ゆっくり流れていく都会の時間。水族館の巨大な水槽の中を甚平鮫が豪快に横切っていく。クラゲの集団がふわりふわりと浮いている。郊外の夜、誰もが幸せな夜を過ごしている。
異常な、非日常な題名の「二重生活」。けれど、この映画に描かれているのは、淡々とした日常だ。二重生活が特異ではないかのように、物語は淡々と語られていく。
二重生活まがいのことは、現代社会においては珍しいことではないだろう。
非日常のような日常。二重生活のような一重生活。
この映画は、二重生活も一重生活も、当たり前のことのように描かれていく。
登場人物は、二重の虚構の生活を演じているのではない。表の生活も裏の生活も、それはどちらも本当の生活であり、どちらも虚構の生活なのだ。
この映画の際立った特徴は、二重生活を知る者の視点が、尾行者の視点ということだ。尾行者という超越者は、神のように二重生活を送る者たちを見下ろす。
けれど、神ではない彼女は、二重生活を見下ろすことで、自分自身、表と裏の顔を持つ二重の仮面を被ることになる。
私が見てきた東京の風景。
それは複雑すぎる現代都市の風景で、そこでは、数多くの蠢く人たちの繊細な、ありきたりの、物語が日々進行している。深夜にカップラーメンを啜るカップル。そんな何でもない一齣にも、なんと言えばいいのだろうか、日常のありのままの本当の姿が張り付いている。
尾行者が見ていたある夫婦は、演じられていた虚構の夫婦。
最後に明かされるのは、尾行者が気づかずに、虚構の夫婦を本当の夫婦と信じ込んでいたという事実だ。
そして、尾行者自身も、二重の生活所以に、平和な同棲生活の破綻を余儀なくされる。
それは二重の仮面の持つ耐え難さからだ。
けれど、彼女は、尾行者という二重生活を通過することで、自分の姿を知り、自分自身に折り重なることができる。