しばらくブログを書いていなかったせいか、量産の衝動に駆られる。
私は理科も数学も好きだったし、日本史や世界史も好きだった。
得意不得意ということではなくて、関心のあるという意味だ。
けれど、高校生の時、文化系か理科系かを選択しなければならなくて弱った。文化系を選ぶと、理科の科目は物理を選択できなくなるし、数学も選択の幅が狭まれる。
だから、私は理科系を選択して、日本史を取る方法を選択した。これが、一番自分が気になる科目を選べる選択肢だからだ。
文化系・理科系という分け隔ては止めてほしいし、そもそも学問はそういう分類で成り立っているわけではなく、知りたいという知的関心から成り立っている。
ヨーロッパでは、日本のように各分野が壁を作って自分たちの陣地を定めてしまうような狭窄なことはされていない。
そもそも、科学の発展は宗教的な動機から発しているし、西欧の科学者には宗教的な信念から出発して研究している人が多い。
大学の時も、高校の時と似たような問題にぶち当たった。
英語は基本的に必須で第二外国語で新しい言語を学ぶカリキュラムにすると、自分の専攻する分野の科目も時間的に取りやすくなる。
私は、もう散々今まで学校英語に付き合ってきたのに、もう英語は勝手にやるから嫌だし、言葉に関心があったから、新しい言葉に一つでも接したいという思いが強かった。
だから、ここでも同級生とは異なって、思い切り変則的なカリキュラムを組んで授業を受けた。その結果、あいついつもいないな、みたいな感じになってしまったし、そもそも大学の授業は期待していたものとは異なり、死ぬほどつまらない。
それで、必要なもの以外はほとんど授業に出ずに、部活動を中心に勝手なことをやっていた。
結局、日本の教育って、本当に知的好奇心を湧き起こすものになっていないと思う。
現在の中高生や大学生も、私たちの頃とカリキュラムの形式は変化したけれど、中身は同じような環境の中で生きていると思う。
それは、つまりは日本という形式の問題だと思う。