ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

平成31年という年末

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年末から正月にかけて、今年は休暇が長かった。

だけど、遠くへ旅行はせず、自宅にいて、読書三昧・映画三昧・音楽三昧・ネット三昧な生活を送った。

久しぶりのこの1週間の仕事は、とても長く感じられた。

早く眠くなって、8時か9時には寝てしまった。食べてもお腹が空いてしまい、いつもの倍くらい食べる日もあった。

冬休みにブログも少し書いていたが、上手く纏まらず、投稿しないでいた。

 

ひたすらApple Musicで音楽をバックグラウンド調に流して、スピルバーグの映画を見ていた。『レディプレイヤー ワン』というスピルバーグ最新作に嵌まってしまったからだ。簡単明瞭なギーク映画だけれど、ハマる人はハマってしまうと思う。

 『20世紀少年』の、もう一つしっくりこない展開を読んでみたり、『模倣犯』が急に読みたくなったり、『利己的な遺伝子』をスゴイ洞察だなあと感心して読んだりしていた。

模倣犯1 (新潮文庫)

模倣犯1 (新潮文庫)

 
利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

もう少しで平成が終わろうとしているけれど、昭和が終わる頃に抱いた感覚と似たような感覚を抱いてしまう。

天皇がもうすぐ崩御してしまうことと、天皇がもうすぐ退位してしまうこととが、機能的に等価な関係にあるからだと思う。

それは、天皇を媒介にした一つの時代が幕を閉じようとしていることへの、日本人独特の終わりの感覚だと思う。

私たちは、2018年の年末を迎えたのも束の間、2019年の年末に先立ち、もう一つの年の瀬、時代の涯にもうすぐ出会うことになる。

新しい空気を入れて

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今日、仕事があった。

早朝、いつもと異なる交通手段で通勤した。

普段は通らない民家の垣根や玄関のある通りを抜けた。そこはかつて、私も属していた空間だった。人のぬくもりの匂いがした。人が生きている感触が伝わってきた。

私も東京のいくつかの場所で、こうした風景に囲まれて暮らしていた。

一体、あの時の光景はどこに言ってしまったんだろうと考えた。

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昼から外部研修があったので、外出した。帰りに本屋に寄った。

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

上野先生が新刊を出されていた。 

先生の本にはほとんど接してきている。『構造主義の冒険』、『家父長制と資本制』などの初期の著作から、最近の『おひとりさま』シリーズまで、どの著作も無駄がなく本質的で、現実を見据えた内容であり、毎回切れ味鋭く、私には畏れ多い。

昔、一度先生の授業を覗いたことがあったが、しばらくして私にはこの講義は無理だと思い、教室を出た。というのは、ほんの少し話を聞いただけで、先生の性格というのか、生き方というのか、学問にかけるひたむきさというのか、そうしたものの圧倒的な迫力を感じてしまい、私にはこの人の空気を受けるには力が足りなさすぎると感じたからであった。

正直、その時はなぜ息苦しいのか分からなかったけれど、その教室にいることが耐えられなくなって、部屋を出たのであった。

後年、何かの雑誌かインタヴューかで読んだのだが、上野先生が若い頃にシカゴ大学に研究に行った時の話が載っていた。

その記事には、私は外国で日本語以外の言葉を使って研究者として生きていくことはできない、自信がない、と書かれていた。自分が自信を持ってやっていけるのは、日本語のお陰だからと書かれていた。

私は、この記事を読んだ時、あの上野千鶴子が弱音を吐いていたんだと知って、かなり衝撃を受けた。誰にも論争で負けたことがない先生が、弱音を吐いている。だけど、この人は正直だなと思った。そしてまた一層、その凄さを感じてしまった。

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今朝見た、昔懐かしい裏路地の光景。上野千鶴子のすごさ。

この二つは繋がっている。どちらも地に足をつけ、現実を見据えているという点で、共通している。

若い頃、特に学生時代は、未来に、社会に、希望を期待を持って生きている。それは社会を知らないからだ。私もそうであった。村上春樹の小説や上野千鶴子の研究書やレヴィ=ストロースの人類学を読みながら、社会や人やこの世について、何か分かったつもりになっていた。未来に明るい世界があるように思っていた。でも社会に出たらそうではなかった。

けれど、彼らの書物の中に、既に、社会についての世の中についての鋭い洞察や明確な事実は書かれていたのだ。私がそれを読み抜いていなかっただけなのだ。

 

そしてまた、書物にだけ現実が書かれているのではない。世間に社会に生きる無数の人々の声や動きや空気の中に、現実ということの姿は既に描かれている。

 

停止した時間の中で境界線を歩く

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今日も列車は運休が多い。

若き日々、長い間暮らしていた茨城県では、自動車かオートバイがないと生活できなかった。

電車が中心の生活は、東京に移り住むまであまりしたことがなかった。

子供の頃は自転車かバスだった。

 

滋賀県茨城県に似ていて、自動車がないと生活できないだろう。

水戸市土浦市つくば市牛久市など、茨城県のどの町にいても、首都圏へ繋がる常磐線つくばエクスプレスが走っているだけで、そもそも茨城県内での移動に電車は殆ど選択肢として入ってこない。

滋賀県はまだよく分からないのだが、大津市の中心あたりならまだしも、湖西線方面や琵琶湖線の石山以東になると、自動車がないと寂しい感じになってくる。

 

人は古より、一つの土地に住み着いてきた。移動しながらの民もいたが、定住という安定さを求めてきただろう。

遥かアフリカ発祥のホモ・サピエンスが、地球上に住み着くようになったのは驚きだが、移動と定住という葛藤の元に世界中に分散して行ったのだろうか。

 

豪雨によって移動手段がなくなって初めて、私たちは、長距離移動という日常的になった行動が、徐々に発達したメディアに支えられていることを実感するのである。

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雨の日は、自宅に籠って雨宿りである。

 

 バルトークの音楽は、19世紀から20世紀への越境的な位置にある。古典派のように知られていないので、聞いたことがないなと思ってしまうが、聞いていると、彼の音楽が新しい価値観を見つけようと探索している音楽だと分かる。

19世紀的なものからテイクオフしようとしている。


バルトーク・ベーラ「ピアノ協奏曲第3番」(1945)

これまでの形式を保ちながら、それを打ち破っていく力が漲っている。

このピアノ協奏曲第3番は、圧倒的な力に満ちている。

 

などと、音楽を流しながら、ひたすらmacに向かい、ひたすら書物に向かい、ひたすらノートに向かい、降りしきる雨の中、野良猫たちはどこに行ったんだろうと思ったりする。町の猫を撮影しようと思っているのだ。

フィレンツェ史 上 (ちくま学芸文庫)

フィレンツェ史 上 (ちくま学芸文庫)

 
フィレンツェ史 下 (ちくま学芸文庫)

フィレンツェ史 下 (ちくま学芸文庫)

 

 マキャヴェッリを少し読んだ。

マキャヴェッリは優れた社会分析家である。

フィレンツェという一時代勃興したイタリアの国家。ただの通史ではなく、うねり来る陰謀や戦争、権謀術数を事細かに描き分析して、国家が、社会が動いていく時の連続性・不連続性がどういった様相を呈するのかを教えてくれる。

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 abemaTVニュースを流したら、岡山県倉敷市が大変なことになっていた。この集中豪雨の爪痕は相当なものになっている。

火災保険では、大雨・台風による水害を補償している保険とそうではない保険がある。地震保険阪神大震災で知られるようになったが、入っていないと免責事項である。

火災保険だけでなく保険は、いざという時のものであるから、加入時はどうしたリスクがあるのかを十分に考えないで入る人がほとんどで、よくよく考えて加入すべきである。

建物が老朽化していて、そこに大雨水害で家屋が倒壊しても、新品に変えてくれたりしないので、勘違いしないで欲しい。あくまで、現状復帰のための損害部分のみの補償になる。

名探偵コナンは好きなのだが、もう随分、漫画もテレビも見ていない。 

最近発売の『安室透セレクション』では、黒ずくめの男バーボン=安室透が毛利小五郎に弟子入りするという、これまた新たな展開で、青山剛昌もなかなかのストーリーテラーだなと思う。

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何かを新たに創り出すということは、本当に骨が折れるし、精神的に大変な作業である。

私は文章を書くのは好きだし、音楽を作るのも好きだし、絵を書くのも好きであるけれど、自分の能力の範疇なら疲れないが、例えばこのブログなど、新しい創造をしようとして作業に入ると、これは大変な作業になるなと分かる。

まず、創ろうとする意志が必要だし、新しいものを創るための能力もいる。作家が長編を書き終えると、しばらくは何もできなくなると言うが、想像はできる。

編集作業はその点、創造の要素もあるが、オリジナルを求められる形ではないので精神的に楽である。

今日は、雨も降り続くし、絵を書いてみたり文章を書いてみたりしていた。

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一向に通り過ぎない前線を前に、時間は停止し、ニュースは災害関連ばかりだ。昭和天皇崩御したときも、テレビは自粛し、繰り返し同じ映像が流されていたと思う。

 

停止した時間の中で、生と死と、動と静の境界線を歩いている気持ちになる。

私たちは、またこの前線が去れば、日常生活に戻るだけだと分かっている。

オウムや終末論を唱える宗教が言うような、ハルマゲドンは訪れない。

だけど、終末を待ち望んでいる人、非日常を待ち望んでいる人、つまり社会に嫌気がさしている人は大勢いる。意識していない人も含めて大勢いる。

新興宗教にハマる人が増えているのもそれを裏付けている。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 

「ニューヨーク炭鉱の悲劇」で、大雨の日に動物園へ出かける男の話が出てくる。

彼はビールを買って、雨の日の動物園を訪れる。普段は、貿易会社に務めるサラリーマンであり、普通の至ってまともな青年である。 

ある年、僕の知り合いが相次いで死亡する。僕は雨の動物園好きの友人から喪服を度々借りる。

殺人事件の物語ではない。ただ、偶然、僕の知り合いが亡くなっただけである。

物語はただ淡々と死んだ人の経緯を描く。不思議な物語である。だけどそこには、何かしら生きていることの流れを感じさせる。死んだ人についての言葉が連なって行くが、感じられるのは、生はこんな感じだなあ、というものだ。

 

災害が起こり、多くの人が亡くなってしまった。だけど、それが日常であり、日常の裏にはいつも非日常が張り付いている。災害はそれを炙り出しただけなのだ。

私たちは、いつも生と死の境界線の上を歩いているのだ。

100 years ago

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昨日は、部下のミスの後始末で、本人ともども出勤した。

昼から長く伸びた髪を切りに行った。

ふと、髪を切ってもらっている最中、山口市に行ってみようかと思った。

結局、行かなかったのだが、行くつもりでいたので、新幹線で読もうかと思い、『文学界7月号』 を買った。村上春樹が久しぶりに短編を載せていたからだ。

 

今日は、それほど暑くなく、どちらかというと涼しい方で、部屋の中にいると、外を吹いている風が木枯らしのように思えた。

村上春樹の短編を読んでいると、木枯らしの音と相待って、昼間なのに、深夜に一人小説を読んでいた学生の頃のように感じられた。

文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 
理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

 

昨日から、たまたま手に取って読み始めた。

既読書なのだが、また一から読みたくなった。

しかし、恐竜は一億五千万年生きながらえて絶滅したことを知ると、人類もいつか絶滅するという運命を受け入れざるを得ない。

なにせ、種の99.9%が絶滅して来たのだから。

淡い恋愛模様も、上司の陰湿ないじめも、穏やかな土曜日の午後の微睡みも、泡沫のごときものとなる。全ては過ぎ去った時間の堆積の中に埋もれて行く。

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醍醐寺五重塔平安時代、西暦1000年くらいの頃の建造物である。

もう千年も経過している。これだけでも驚きである。

だから、一億年というレベルになると、これは人類の歴史を超えているというよりか、生命史レベルの問題で、こうした時間感覚を私たちが肌感覚で捉えることは難しい。

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アルゼンチンがアイスランドと引き分けた。

少し驚いた。アルゼンチンは弱くなったのか?

サッカーも日本に根付いてきた。Jリーグが始まった時は、やっと日本もと思ったが、小学生の頃など、野球しかなかった。私の受け持ち担任は珍しくサッカー選手だったのだが、体育の時間はサッカーかと思いきや、器械体操ばかりさせる先生だった。

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夜眠る前は、ヘッドホンをつけて音楽を聞きながら、眠くなるまで聞いているのが常だった。

最初はクラシックが多かったけれど、フォークやポップスやロックや色々なものを聞いて眠りについた。

ずっと書物を読み続けている夜もあった。風の音や雨の音が夜を通り抜けている。そんな時、物語の世界に入り込むことは、自分の体がどこか現実とは異なった場所に置かれている気がした。

仕事が嫌な訳ではない、生きるのが嫌な訳ではない、嫌なのは、単調な単層な世界に生きること。

私たちは決して、直線的な世界を毎日生き続けているのではない。私の中には、いくつもの異なった世界が並存し、並行して走っている。

私はそのいくつかの世界を同時に生きたいだけである。

山羊の頭のスープ

山羊の頭のスープ

 

 もう随分前に、ローリングストーンズは、『山羊の頭のスープ』というアルバムを発表した。

私も、長い間、よく聞いていた。その不思議なアルバムの世界に浸ることは、別空間への移動を意味していた。

ドラッグや宗教といった媒介を経ずとも、日常の少し先に異世界は開けている。

 

「どこに行きたい?」

「どこにも行けないよ」

「どこにも行けないから、どこにでも行けるんだよ」

深海

深海

 

 Mr.childrenも、『深海』から、複数の世界、闇の世界、異世界に接触する曲作りを始める。

 

連れてってくれないか

連れ戻してくれないか

僕を

僕も

 

それまでの単層的な曲から打って変わって、重みのある世界に移行した彼らは、新しい世界を畏れているようでもあり、惹かれているようでもある。

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怖がることなんてない。怖いのは分かる。けれど、

 

今のとき ときが今なら この今を

ぬきさしならぬ 今とするしか

村上春樹「石のまくらに」)

自然体という癒し

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テレビを全く見ない私が、先日、たまたまネットで放映していたNHK番組『プロフェッショナル』を見た。

スガシカオの歌がエンディングで流れる番組だ。まだ続いているんだと思った。

その回は、北海道の書店店主の仕事の流儀だった。

この店主は1万円選書と言って、ネットを通じて当選した人にアンケートを書いてもらい、そのアンケートをもとに1万円分の本を選んで配送するという仕事を行っている。

とても人気で、3000人待ちらしい。

 

選書を贈られた人は、贈られた本にとても感動し、悩みや怒りや憤りを緩和させているようだ。この選書がこうした効果を持つ秘密は、カルテと呼ばれるアンケートにある。過去に読んだ本、現在抱えている悩み、履歴といった情報を書き込むようだ。

このカルテは、まさにカルテであり、フロイト博士のごとく、応募者の症状に適合した書物を、店主が読書履歴から選書する。

 

こうした症状への応対は、書物だけでなく、音楽・映画を使っても行うことができるだろう。しかし、おそらく書物が一番ぴったりするメディアだと思う。それは、音楽や映画が一方向的に流れ込んでくるのに対し、本は自分から能動的に動かなければ、何の情報も入ってこないからだ。

一万円選書は、自分から積極的に応募し、自分を変える書物に出会いたいという動機から開始される。それならば、その積極性の延長線上に読書行為を位置づけることが、一番理に適っている。

 

一万円選書で選ばれる本。

もしも私が応募したらどんな本が届くのだろうか?興味深い。私もいろいろな本を読んできたが、やはり偏りがある。新しい分野の書物に手を伸ばす切っ掛けに、一万円選書の考えを借用するのもいいかと思う。

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私は、とにかく週に一度は必ず本屋に行く。

そして、読みたい本があれば買う。あとは、ひたすら読む。その繰り返し。

読みたい本がたくさん出版される時もあれば、ほとんどない時もある。

だけど、必ず本屋に行く。昔は図書館にひたすら通って本を借りていた。だけど、すでに発売されている読みたい本は、持っているし、新刊を探しに、今は本屋しか行かない。

 

GW、ソファの前に並んでいる本棚を眺めながら、思いついた本を手に取って読んでいます。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 

若手の学者が書いたものでヒットしている作品だけれど、地道な研究の成果を書き記した新書だと思う。

応仁の乱って、確かに小学校から教科書に載っていて知っている事件だけれど、事件の中身は?というものだと思う。

これは応仁の乱に限らず、歴史的な事件は、ほとんどが?だと思う。まあ、日常生活に必要ないし、興味ない人にはどうでもいいことだし、実際どうでもいいと思う。

だけど、未知の事件を本当に知ることがどういうことなのか、本書を読むことで齧れると思う。

 最近、『東京喰種』については触れたけれど、この作品は現代社会に警鐘を鳴らしている作品で、登場人物・ストーリーから目が離せないし、その圧倒的な暴力性と優しさが同居する稀有な作品だと思う。

人間サイドもグールサイドも、一癖も二癖もある人物のオンパレードで飽きさせないし、戦闘シーンの描写力は凄まじい。

SFではあるが、生命や種をどう考えるのか、深く考えるための素材が詰まっているし、生命界にあってグールなのは、我々人間であるという重い事実をどう考えるのか、という、はぐらかしてしまいそうな問題を突きつけてくる。

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

 

 大阪の町の成り立ちが分かる。日本列島全体がそうだけれど、古代にまで遡ると、大阪は全くの別の土地である。

大阪には半年ほど住んでいたことがあった。だけど今は行きたくない町の一つだ。正確に言うと、行くことが難しい町だ。

フロイトが長い間、イタリア旅行に行けなかったように、私も大阪になかなか行けないでいる。だけど、何とか行けるようになりたい。その取っ掛かりになるといいのだが。

スター・ウォーズ「新三部作」完全解読本

スター・ウォーズ「新三部作」完全解読本

 

 昨年12月に公開されたSWエピソード8。

劇場に足を運んだものの、さっと1回見て帰ったので、中味をじっくり理解できないままだった。

つい最近、映像が配信され始めたので購入し、おまけの映像や音声とともに楽しんでいる。

SWは、アナキン・スカイウォーカーに始まる謎めいた「スカイウォーカー家のクロニクル」であり、宇宙を舞台に「善と悪の反転・縺れ・対立」を描いた一大叙事詩である。

この本は、EP1から始まる3部作についての解説書であるが、SWシリーズ全体を理解する上で参考になる。

荒神 (新潮文庫)

荒神 (新潮文庫)

 

 宮部みゆきは、急に読みたくなって読み出し、また全く忘れてしまって本棚の奥に眠ってしまう。

火車』『理由』『ソロモンの偽証』など、現代の松本清張のごとき作品だけでなく、藩の対立を描いた『荒神』のような時代小説も、宮部みゆきの得意とする作品である。

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GWも半分ほど経過しました。

旅行に行こうと考えていたのですが、天候・アクシデントから、遠乗りは辞めて気が向いたとこに行こうと思ってます。

ふと今思い出したのですが、西武線沿線に住んでいた頃、GW辺りに、恋ヶ窪駅という西武国分寺線の駅に降りたことがありました。

その駅にポスターがあって、全国の駅で恋という言葉が入る駅は、3つか4つしかないと書かれていました。確かに見たことないなあと思いました。

 偶然降りた比較的近所の駅なのに、その駅が全国レベルのエピソードの駅とは全く知りませんでした。

旅行というと、遠出と考えがちですし、近くの駅では旅行と呼べないのも事実なのですが、案外気張らずにふらっと出かけた場所が、遠くであれ近くであれ、印象に残るものです。

 

読書もそうですが、旅行も外出も、頑張りすぎずに、自然体で、直感で閃いた方に向かえば、満足し、癒されるひと時になるのではないでしょうか?

春の嵐の後に

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Apple Musicでは、4500万曲が1ヶ月980円で聞き放題である。

これは恐ろしくお得であり、音楽好きには堪らない環境である。1日に100曲聞いたとして、一生かかってもそのほんの一部しか聞けない。

この関係は、人との関係と同じである。世界に何億といる人のほんの一部としか、一生涯で会うことはできない。書物との関係でも同じである。

ここから、現在におけるキーワード「検索」が重要となる。

 

膨大な何かを前にして、人知では目的物に辿り着けないとき、倉庫・アーカイブ・データベースで表されるストックから、検索装置を経由して、目的物を取り出すという手続きが必須となる。

Apple Musicでは、検索で求める音楽に出会うことは容易だし、アマゾンや大型書店でのデータベースから目的のブックを探すのも簡単である。

 

しかし、人間の場合はそう簡単には行かない。

世界の全員がFacebookに登録しているわけではないし、自分が求めている人を見つけるのは難しい。さらにネット空間の匿名性が、商品との関係性とは異質の関係を作り上げている。

とは言うものの、数学のネットワーク理論におけるスモールワールド現象によると、ランダムに抽出した2人は、その間に6人の人間を挟むことで、繋がるという。いわゆる「6次の隔たり」である。

例えば、私と宇多田ヒカルは、その間に私の友人、その友人の知り合い、、、と辿ることで、六人目にして宇多田ヒカルに到達できるということである。

 

人間の世界は意外と狭いと言えるけれど、人間は音楽や書物と違って商品ではないから、ある人に到達したからといって、そこからの関係性は相互的なものになる。

 

3月に入って春一番が吹いた。今日は雛祭り。

花粉が大量に飛散し始めた。もう目が痒くなって来た。

 

春になると思い出すことの一つに、10年以上前のテレビドラマ「家栽の人」がある。

 

以前ブログで書いたことがあると思うけれど、このドラマの主題歌は大貫妙子「春の手紙」である。


春の手紙

 

事件が起こる。犯人は未成年。家庭裁判所桑田判事が、少年の心の声に耳を傾ける。判事の願いは、少年が自身の罪の重さを自覚し、罪を償うことで、正しい道を歩ませることである。

 

時が過ぎても本当のことを知りたいと思う時があるの

 

真実は罪を犯した少年の心の中にしかない。それが公にされたり、少年以外の人間が知ることは本質的なことじゃない。

恋した人がいたけれど、その人の本心は分からないままでいた。時間が経過しても、その人の本心がどうだったか知りたいと思う時がある。

 

春へと贈る手紙は今もピリオドをうてずにいるからあなたと生きてる

 

恋愛も、事件の真相も、当事者以外にその雰囲気は正確に掴めない。

ことの本質は、恋愛を、事件を生きた当事者の世界の中だけにある。

誰しも生きにくいと思う

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忖度という言葉が世間でメジャーになって久しい。

数ヶ月前まで、この言葉は廣松哲学の中でしか見かけられなかった。一夜にして世間・世界は変わる。小さなこと・大きなことに関わらず。

 

ジョージ・フリードマン『100年予測』の序章には、20世紀の20年ごとの変化が記されている。

100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 最近、注目を集めつつある地政学による世界情勢へのアプローチの書である。

20世紀、20年ごとに世界は大きく変化した。

20年先は読めない。

1900年、ヨーロッパは大繁栄を迎えていた。しかし、1920年の世界では、ヨーロッパは血みどろの戦場となって墓場と化し、没落した。

多くの方が現実に目撃した1980年以後の20年サイクルについて見ても、大変化が起こった。

 

マクロに世界・社会単位の変化を知る一つの術が地政学なら、ミクロな個人の姿を知る術の一つが小説・手記である。

山崎豊子不毛地帯』は、戦中・戦後を生きた軍人・企業人の物語である。

この小説には、戦中・戦後日本を生きた人間の姿が赤裸々に描かれている。

ここには世界の断続的な変化の中で、人がその波に立ち向かって生きる一つの姿がある。

大本営参謀から、シベリア抑留を経て帰国し、商社マンとなった主人公の立身出世・艱難辛苦の物語として捉えられがちな小説だけれど、「不毛地帯」という題名に注目すべきだと思う。小説の大部分を占める商社マンとしての物語が、「不毛地帯」と名付けられた意味を考える必要があると思う。

小熊英二の本書も、ノンフィクション戦後史として、戦中戦後を生きた一人の人間の姿が克明に描かれている。こちらの主人公もシベリア抑留を経験した兵士であり、『不毛地帯』と比較すると、見えてくるものがあると思う。

 

私は、大きな歴史的な出来事の変化と同時に、その時代を生きた人たちの事細かな心情や関係性に関心がある。誰を愛し、何を考え、両親にどういう感情を持ち、日々の出来事にどう向き合っていたのか等、等身大の人の姿に惹かれる。

 

こうした、ある人が社会をどのように生きたのかという観察者の視点から、私たちは社会をどのように生きて行けばいいのか、という実践者の視点に変えると、多くの人にとって、より身近な関心ごとになるだろう。

森のバロック (講談社学術文庫)

森のバロック (講談社学術文庫)

 

 私たちは、日々、仕事に行くのが嫌だと思いながら仕事に向かい、学校に行くのが嫌だと思いながらも学校に向かい、家族生活が面倒だと思いながらも家族と一緒に暮らし、などと、社会を生きようとするならば、ある程度守らなければならないルール・規範がある。

社会では、仕事に行くのが当たり前と見なされるけれど、私たちは自分の迸り、あちこちに向かう精神の流れを、仕事という焦点に向けて流し込まなければならないだけで、本来、仕事も何もなければ、自由な精神の赴くままに行動してしまうのが、本来のあり方だと思う。

だけど、お金を稼がないと生きていけないから、自由奔放さを押し殺し仕事に向かう。

『森のバロック』が描かれた目的は、自由な精神の流れを持つ私たちが、社会を生きるために、どういう処方箋があるのかということを、南方熊楠の思想を通じて示すことである。

 

どの人も、社会を生きないわけにはいかない。しかし、ただ真面目に生きていたのでは精神に支障を来すだろう。

社会の中をどう生き抜くか?

これは万人にとっての大きな課題だろう。

 

社会の中で生きるとき、彼の意識はたしかに人間を生きている。しかし、彼は同時に、自分の存在が人間だけで構成された世界で完結していないことを、知っている。