以前撮影した写真をランダムに並べてみました。
近頃、自宅の自動車を使うことが増えて来た。出勤時に音楽を聴くようになって来た。
数年前までは、当たり前のようにやっていたのだけれど、ここ数年、自動車も音楽も、使い方・楽しむ時間帯が変わっていた。
何か、自分に微かな変化が起こっているのだと思う。
日常の切れはし、ぼやけた遠景がやがて近づいてくる。
近くなって遠のいていく風景
同じ景色をずっと眺めさせてはくれないのだろうか。
珍しく先日、昼間自宅に一人でいました。
いつか、そう遠くない先に親はこの世を去り、この空間に自分一人になるのだろうな、と思いました。
暗い、悲しい話としてではなく、人の常として、いつかは迎える日常の一コマとして、そうなんだなと思いました。
宣統帝の一生は、境遇は違えど、私の一生と相違はない。
朝に乗るバスが、死刑囚の囚人車だったら、と考えることがある。
楽しさ、苦しさという大雑把な言葉では表現しきれない感情
もとから、日常的に腹を立てないけれど、近頃は増して腹をたてることがなくなって来た。
そういう人もいる。こういうことも起こってしまう。どれもが今まで遭遇して来たことの範疇に収まってしまうので、怒ることも驚くこともない。
梅雨空も、それほど続かないから、雨もさして降り続かない令和元年の梅雨
七夕も過ぎてしまい、祇園祭も始まり、だけど、暑くないから夏という感じでもない。
学生時代、7月といえば、ボートの練習に明け暮れていた。
お盆前、花火大会が行われる頃になると、練習は一旦終了した。
荒川の河川敷やボートコースの土手に座り、ナトリウムランプの橙色の明かりに照らされながら、暮れていく黄昏を眺め、花火の音を聞いた。
その時は、その音やその時いた空間や時間が自分の全てだった。過去も未来も考えはしなかった。
時代も変わった。人は、同じように見えても、社会の関数だ。社会が変われば人も変わる。
私は、理性的であるよりも感覚的な人間だ。自分が求めている感覚。その肌触りをイメージしながら、それに合致するものを見つけようとしている。
戸田ボートコースの橙色のナトリウムランプ
自分はそのぼんやりとした明るさに照らされていると、不思議な空間にいるような、そんな感覚がした。