ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

新しい空気を入れて

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今日、仕事があった。

早朝、いつもと異なる交通手段で通勤した。

普段は通らない民家の垣根や玄関のある通りを抜けた。そこはかつて、私も属していた空間だった。人のぬくもりの匂いがした。人が生きている感触が伝わってきた。

私も東京のいくつかの場所で、こうした風景に囲まれて暮らしていた。

一体、あの時の光景はどこに言ってしまったんだろうと考えた。

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昼から外部研修があったので、外出した。帰りに本屋に寄った。

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

上野先生が新刊を出されていた。 

先生の本にはほとんど接してきている。『構造主義の冒険』、『家父長制と資本制』などの初期の著作から、最近の『おひとりさま』シリーズまで、どの著作も無駄がなく本質的で、現実を見据えた内容であり、毎回切れ味鋭く、私には畏れ多い。

昔、一度先生の授業を覗いたことがあったが、しばらくして私にはこの講義は無理だと思い、教室を出た。というのは、ほんの少し話を聞いただけで、先生の性格というのか、生き方というのか、学問にかけるひたむきさというのか、そうしたものの圧倒的な迫力を感じてしまい、私にはこの人の空気を受けるには力が足りなさすぎると感じたからであった。

正直、その時はなぜ息苦しいのか分からなかったけれど、その教室にいることが耐えられなくなって、部屋を出たのであった。

後年、何かの雑誌かインタヴューかで読んだのだが、上野先生が若い頃にシカゴ大学に研究に行った時の話が載っていた。

その記事には、私は外国で日本語以外の言葉を使って研究者として生きていくことはできない、自信がない、と書かれていた。自分が自信を持ってやっていけるのは、日本語のお陰だからと書かれていた。

私は、この記事を読んだ時、あの上野千鶴子が弱音を吐いていたんだと知って、かなり衝撃を受けた。誰にも論争で負けたことがない先生が、弱音を吐いている。だけど、この人は正直だなと思った。そしてまた一層、その凄さを感じてしまった。

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今朝見た、昔懐かしい裏路地の光景。上野千鶴子のすごさ。

この二つは繋がっている。どちらも地に足をつけ、現実を見据えているという点で、共通している。

若い頃、特に学生時代は、未来に、社会に、希望を期待を持って生きている。それは社会を知らないからだ。私もそうであった。村上春樹の小説や上野千鶴子の研究書やレヴィ=ストロースの人類学を読みながら、社会や人やこの世について、何か分かったつもりになっていた。未来に明るい世界があるように思っていた。でも社会に出たらそうではなかった。

けれど、彼らの書物の中に、既に、社会についての世の中についての鋭い洞察や明確な事実は書かれていたのだ。私がそれを読み抜いていなかっただけなのだ。

 

そしてまた、書物にだけ現実が書かれているのではない。世間に社会に生きる無数の人々の声や動きや空気の中に、現実ということの姿は既に描かれている。

 

911、2018 平成最後の911

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8月は意外とブログを書いたからか、9月に入って時間は結構あるのに、それほど書こうという気にならない。書くネタはたくさんあるのだが、ネタがあるのと書く気になるのとは違う。強制的に書かなくてもいいから、書きたいと思うときに書くまでである。

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この頃は、列車に乗っている時が結構楽しいし、落ち着く。少なくとも1時間くらい乗れれば、寝たり本を読んだりしてまったり過ごせる。ガタンゴトンという列車の規則的な振動が心地いいのかも知れない。だから休日に台風や大雨で列車が運休・遅延してしまうと、がっかりしてしまう。

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今日たまたま聞いたら、来週いっぱいでまた外国に戻ると言っていた。いなくなると、やっぱり寂しい。いなくなったら暫くは元気が出ないだろうな。

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大小様々な問題を抱えて、齷齪毎日を過ごしている。

終わりなき毎日を終わりのある毎日に変換して過ごしている。

遠くで見た青い空も、昨日見た夕焼けも、その日その日の出来事として締め括られ、毎日は更新されていく。

ありふれた日々も、永遠の記憶として生き続いたら、私たちは豊穣になるのだろうか。

平凡な日常であれ、精神の混乱や諍いは、点として、ある時は線分として、私たちを畏れさせ、時めかせて、日々歩ませる。

音楽は社会の関数である

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今朝、たまたま耳にした音楽が、ルックの「シャイニオン」だった。

とても懐かしく思った。一度聞いたら忘れられない曲である。

もうとても前の曲で、1980年代頃の曲だと思う。

歌詞自体は、別れた女性が忘れられないという、ありふれた陳腐なものだが、この曲が優れていたのは歌詞ではなく、その旋律と歌声である。


LOOK - 「シャイニン・オン君が哀しい」 HD Live

曲が売れる売れないに関わらず、聴き惚れさせるためには、もちろん持って生まれた美声が必要だが、それと同時に、自分の守備範囲のオクターブの曲と自分の声色に合った曲を見つけることである。

残念ながら、ルックはこの曲だけに留まり、新しいヒット曲を世に送ることはできなかった。しかし、この「シャイニオン」だけであれ、ルックは後々まで残る名曲を生み出した。

自分は綺麗なものを綺麗だと感じることができると信じている。

自分の感性に従っているだけよ。

 

一般受けするかしないかに関わらず、まずは自分の感性に従って判断すればいい。

この曲は好き、この絵は嫌い、この人は好き、この漫画は嫌い、、、。

簡単な二分法で、好きか嫌いか、直感的に判断して決める。そのあとで、じゃあなぜ、私はこの曲が好きなんだろうと少し深く考えてみる。

考えれば、その理由が何か浮かんでくるだろう。歌声が好きなんだとか、旋律のこの部分が堪らなく好きなんだとか、より具体的に見えてくると思う。

 

そして、またそこから自分なりに考えを深めていくと面白いと思う。

私は何事によらず、こうした方法で、時間があれば考え事をしてしまう。

あの人は、ああいう言葉を、ああいう表情で言ったけれど、本心はどういうつもりだったのだろうとか、、、。 

音盤考現学 片山杜秀の本(1)

音盤考現学 片山杜秀の本(1)

 

音楽は時代の精神を反映している。

戦前の曲、戦後の曲、高度成長期の曲、音楽が細分化していく80年代以降の曲をそれぞれ聞いてみると、全く受け取る感じが違う。

音楽分析の書物は巷に数多くあるが、世間一般的には、音楽で世の中が分かるはずがない、漫画ごときで世の中が分かるはずがない、と言った意見が今でも多いのではと思う。

しかし、世にあるものは全て社会に属し、人が作り上げたものである。時代精神や社会情勢を反映していないものなど一つもない。

 

音楽は社会の関数であり、漫画は社会の関数である。

There is no such thing as coincidence.

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この世に偶然などない。全ては必然だ。

There is no such thing as coincidence.

 

大きな災害に見舞われたり、交通事故に遭遇したり、空き巣に入られたり。

 

もう随分前に、東京の青山に父親が来たことがあった。洒落たバーで酒を飲んだ。

何を話したか覚えていないが、父はご機嫌で、魔術のように夜は更けていった。翌日父親は帰っていった。

後にも先にもこんな風に父親と酒を飲んだことはない。何がそうさせたのか。

 

誰かと出会い、気になり好きになる。

最初はそうでなくても、感情が訪れて、好きになってしまう。

 

オウム真理教の人たち。彼らも真理を求め、希望を携えて、大志を抱いて宗教活動をしていたのだと思う。

でも、なぜああなってしまったのか。

 

全ては必然なのか。偶然ではないのか。

偶然と必然は出来事を観察する人の位置によって変わってしまうだけだ。

神にとって全ては必然だ。しかし、出来事に直面している人にとっては偶然だ。

 

男性は押し並べて出来事と直面しないで避けてしまう人が多いと思う。

反対に女性は出来事を直視し逃げないでぶつかっていく人が多いと思う。

この点で、女性の方が必然性を身に帯びようとしているように思う。

でもこれはどうしてなのだろうか。

 

漠然と思うのは、出来事を直視しないと女性は社会で生きにくいからではないだろうか。全てをあやふやの偶然に身を任せていれば、悪い方に転ぶかもしれない。

ならば、先手先手で、起きた出来事を直視して、正確に判断し、次の手を考える。その方が生きやすい。

私が出会った数多くの女性はみんな、必然性をおびき寄せる人たちであった。

もちろん男性でもそうした人はいる。男性でそうしたタイプの人は、生き方において優秀な人たちであった。でも、多くの男性はあやふやなまま生きていても許され、社会を渡っていける。

 

There is no such thing as coincidence.

全ては必然と考え、出来事を直視すること。

それは怖いことだろう。

だけど、その生き方のほうがかっこいい。 

昭和は遠くなりにけり

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ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこが逝去した。

平成とともに始まったアニメ版をよく見ていた。そこに描かれていたのは昭和時代であった。数年前に昭和が終わったから、懐かしさもなく、世間にはまだ昭和の名残があった。

昭和時代とは何だったのだろうか。平成が始まった頃には、はっきりとは分からなかった。

長渕剛は昭和が終わった直後に、「昭和」という曲を書いた。

 

傷つけば傷つくほど優しくなれた

貧しさは大きな力になり

意気地のなさは勇気に変わる

・・・

とうとう昭和の歴史が終わった

 

長い長い昭和の歴史。

傷つけば優しくなれ、貧しさも生きる力になり、意気地のなさも勇気になる。

マイナス面がプラス面に直結する時代、昭和。

素直、実直、真面目、正直といった言葉が浮かぶ。

昭和の歩き方は、真面目さがキーワードだった。

 

平成は、昭和とは連続する時代でありながら、そのカラーは異質だった。

平成の歩き方には、ひねり、軽さ、透明といった言葉が必要だった。

 

そして、おそらく、昭和から平成への越境は、1980年代のバブル期に徐々に行われたのだと思う。

 

今やもうすぐ、平成も終わろうとしている。

時代は、真面目さから軽さへ、そしてどこへ向かおうとするのか。

昭和は遠くなってしまった。

孤独はなぜ僕を見つめ続ける?

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老後をどう過ごすか?

 

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の私は、ギリシア語とチェロを練習する老後を思い描いている。

これは私の理想にも近い。語学と音楽好きな私も、ピアノ、バイオリン、フルートなどとギリシア語、ロシア語、中国語などを学ぶのは楽しいと思う。

肘掛け揺り籠椅子にゆったりと座り、BOSEスピーカーから流れてくるシューベルトサンサーンスを聴きながら、『Aufscreibe systeme』や『Pride & Prejudice』をゆっくり読んでいく。

料理は、すぐに作れるようにキッチンをすぐそばに備えて、冷蔵庫に必要な食材を準備しておく。全てを近くに配備しておくのだ。

近くに川や湖があれば良いなと思う。

 

こうした生活は普通に可能だと思う。

だが、緩急がないと飽きてしまうだろう。

 

『Pride & Prejudice』の作者ジェーン・オースティンは、18世紀後半から19世紀初頭を生きた。人は自分の生を選べない。偶然、生まれ落ちた世界で生きるしかない。

今は大変な時代だ、と人は言う。しかし今が大変なのではなく 、どの時代であれ、生きること自体が大変なのだ。

 

人は強くもあり弱くもある。

強く見えていても、それは何かの支えがあるからなのだ。

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私たちの心は、ルール・構造・広さ・初期値等のような概念を当てはめることで、より明晰に心の形を把握できるように思う。

そうしたことを行なっているのは、心理学や精神分析学などの心の学問であるけれど、

 学問として考える前に、私たちは相手の心を汲み取り、それに対して行動を起こしている。

心は頭脳よりも素早く相手の心を捉える。心の位置は頭だと言われるけれど、心と思考のスピードは同じではない。

考える速さよりも感じる速さの方が速い。

私たちは考えて理解に到達するより前に、相手の心を感じている。

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老後の過ごし方を書いたけれど、何かをするということ以上に、人の心の存在が必要だと思う。

頭脳だけではなく心を持つ私たちは、AIと異なり、人と人との間に存在している目に見えないもの、愛・信頼・空気といったものが、その住処となっている。

空気のない場所では生物として生きていけないのと同じく、愛や信頼のない場所で、私たちは人として生きていけない。

私たちは生物として老いていくけれど、人として老いていく訳ではない。私たちは消滅するまで人であり続ける。

 

孤独はなぜ僕を見つめ続ける?

崎谷は憂鬱だ

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当時まだマイナーだった崎谷健次郎の曲に触れたのは、たまたま後輩の部屋に行ったことがきっかけだった。

何の曲だったか覚えていないのだが、崎谷の曲が流れていて、それまで聴いたこともない曲調と歌声であり、これ誰?と聞いた。

それから数年、ずっと聴いていた。だから、当時の記憶の中の風景には、崎谷の音楽が少なからず登場していた。

でもいつの頃からか、全く聴かなくなってしまった。

 

何かの拍子で、一瞬彼のメロディーが横切る時があったが、すぐに消えて行っていた。何度も何度も聴いていた音楽だから、懐かしいと思っても、それ以上深追いして彼の曲を引き出そうとはしてこなかった。

今日はどうした訳か、崎谷の曲が「アクリル色の微笑み」が、私の中で流れ出した。

おそらく、8月もお盆が明け夏休みも終わりに近づき、秋の気配が漂ってきたからだと思う。私の記憶の中で、「アクリル色の微笑み」と今の季節は大きくリンクしている。しかも、私はこの曲とほぼ同時期に、アクリルという素材に初めて触れたのだ。

 

風景、音楽、匂い、光景、空気といった一連の言葉は、連鎖しあって過去の記憶を呼び覚ます。

 

巨大な影 傾く都会で

僕はひとり ふりかえり

細い背を みつめる

 

若さゆえの感傷に満ちた記憶と言えるけれど、現在までのこうした記憶の集積体が私と言えなくもない。

 

崎谷は憂鬱だ。しかし、崎谷は憂鬱さを分かって演出している。

憂鬱という空気をいっぱい音楽に送り込んでいる。