ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

何かをやってはいけないのではない

f:id:jauma1th:20180323152133j:plain

何のためにブログを書いているのか?

私は少なくともある人のために書いている。その人と関係のない内容であっても、その方が圧倒的に多いが、その人のために書いている。

その人が読んでいるかどうかは分からない。でも書いている。

勿論、文章を書くのが好きだから書いているという面はある。しかし、ただ文章を書くということはできない。文章はいつも誰かへ宛てたものである。

 

先日、仕事帰りに本屋に寄った。見田宗介の新刊が出たからだ。

見田先生も高齢で、もうそんなに書籍も出版されないだろう。寂しい限りである。

見田先生の数々の名作に影響を受けた人は多いと思う。

 コンパクトながら、内容の凝縮された新書で、未来へのイメージや示唆に満ちたものである。

f:id:jauma1th:20171027220043j:plain

3月に東京へ行った時、何となく電車に乗って行った先は、葛飾区金町駅だった。

私は下町に長く住んでいたから、葛飾区・江戸川区江東区・足立区などに親近感があった。江戸時代から続く昔の街の残響が感じられて、東京でありながら、時間がどことなくゆったりと流れて行く感じが好きだった。

だから、自然に任せて辿り着いたのは、やはり下町だった。

金町も好きな町の一つである。何かがある訳ではない。だけど、そこには下町にしかないリズムがある。

江戸川の長く続く河川敷を越えると、すぐに千葉県に入り、常陸国へと続いて行く。駅前近くから長く一直線に伸びる柴又街道は、ずっと先の江戸川区まで伸びていて、この街道を一体何回通ったことだろう。

 

今いる町は生れ故郷とは言え、住んでいたのは、もうずっとずっと昔のことだ。

慣れてきたとは言え、どこか他人行儀な町というイメージが付きまとう。

私の故郷は、もう東京になってしまっているのだと思う。

遠い異国の地で、生涯を終えた人たちは、故郷への思いをどうやって断ち切ったのだろうか。

今いる場所で生きるしかない。それが現実というもの。100%満足して生きて行ける訳ではない。

f:id:jauma1th:20180324071212j:plain

 オウム真理教に代表されるような新々宗教は、嘗て、胡散臭い集団という印象を免れなかった。

ものみの塔幸福の科学統一教会創価学会、なども、そうした印象があった。

私も、若い頃、こうしたいくつかの組織に接触したことがあったが、その中で活動している人の精神に違和感を感じた。

あれから何年も経ったが、現在も、周囲で新々宗教に所属している人に出会うことがある。

だけど、現在の印象は以前と随分違ってきた。

言わば、地域社会の延長で組織に参加しているという印象、創価学会が典型だが、お隣さんも入っているし、くらいの気楽なノリで参加している人が多いと感じる。

だから、やはり日本には宗教というものは根付きにくいのかなと思う。

 

宗教集団というのは、一種の革命組織と言える。この社会はおかしい、間違っている。だから宗教の力で革命を起こそう。宗教組織は反社会的であるのが、一般的である。

だから、地域社会の延長に宗教集団があるのなら、それは、日曜学校やサークル活動と変わりがない。

しかし、だからと言って、現在の新々宗教を否定している訳ではないし、そもそも宗教自体が革命的な力を装うものではなくなってしまった。

音楽・自動車・サッカー・演劇に惹かれる人と同じように、たまたま宗教に惹かれただけで、ただそれだけの話である。

私が学問や音楽や映画にこっぴどく惹かれるのと同じである。学問に惹かれるのが高尚な訳がない。

 

長崎に行って思ったのは、宗教が根付いている町というのも素敵だなということであった。

百花繚乱。どの花も咲き乱れたら、素敵なものである。

 

億の巨匠が並んで生れ

しかも互いに犯さない

 

他人を侵食しないことを条件にするのであれば、何かをやっていけないことはない。

することも、しないことも、ともに自由な世の中であれば、こんなに素晴らしいことはない。

宗教も、生きがいも、住処も、何を選択しても良い自由な社会。

大地震は、私たちを遠くへ連れて行く

f:id:jauma1th:20171027220840j:plain

今月初め、中米グアテマラでフエゴ山噴火により、多くの犠牲者が出た。

グアテマラは火山大国で、古都アンティグアや新都グアテマラシティに滞在していると、地元の青年が火山見物はいかがですかと勧誘に来る。

火山爆発も多いし、地震も多い。街には至る所に、地震の爪痕が残されている。なかなか復旧できないのだ。

 

今朝、大阪北部で震度6地震があった。死者も出た。

仕事場にいた私は、大きめの揺れを感じて、珍しく大きいなと思ったが、予想以上に被害は甚大だった。

関東地方に住んでいると、地震は頻繁に起こるから、今日くらいの揺れだと大して驚かない。

でも、さすがに東北大震災の時は驚いた。道路を歩いていたのだが、急に道路が傾いたように大きく揺れて、転びそうになった。パチンコ屋やラーメン屋から、人が青ざめた顔で飛び出してきたのを見た。

nyan55.hatenablog.com

地震が起こると、あたかも目の前に大魔神が登場したように、私たちは為すすべもなく、地震に跪くことになる。

それは、避けることのできない出来事であり、目の前が大きく変化してしまうのを、ただ呆然と見つめているしかない。

親が亡くなった、大失恋をした、交通事故にあった、などの、その人を変えてしまうような出来事と同じくらいのインパクトが、大地震にはあると思う。

阪神大震災は戦争のようだったと、戦争体験者は語っていた。

地震は、地下からの攻撃によって街が崩壊し、焼け野原になる。まさに戦争だ。

f:id:jauma1th:20180324073501j:plain

 大きな力の前に、人が死んで行き、抵抗する術もなく佇んでいる経験をしたならば、まやかしや格好付けではなく、自然と人は、確固とした何らかの決意を抱くようになるのではないか?

私が実際に経験した訳ではないから、本当のところは分からない。でも、想像するに、人が死んで行くのを堰き止めることもできず、ただ無力でいるしかなかったなら、その人はその無力さの反作用として、心や行動に変化が起こるのではないか。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 「UFOが釧路に降りる」で、主人公・小村の妻は、大震災のあと5日間、地震のニュースを見続けた後、忽然と姿を消した。

 

問題は、あなたが私に何も与えてくれないことです、と妻は書いていた。もっとはっきり言えば、あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつないことです。あなたは優しくて親切でハンサムだけれど、あなたとの生活は、空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいでした。

 

地震が起こらなかったら、小村の妻は、このことに気がつかなかったかもしれない。地震が彼女の無意識の扉を叩いたのだ。

そしてまた、小村も地震と妻の失踪をきっかけとして、遠くまで辿り着くことになる。

 

日常を非日常へと変える大地震

それはカタストロフィックな街の崩壊だけではない。

人を変える、人を非日常へと連れ出す。

100 years ago

f:id:jauma1th:20180603094126j:plain

昨日は、部下のミスの後始末で、本人ともども出勤した。

昼から長く伸びた髪を切りに行った。

ふと、髪を切ってもらっている最中、山口市に行ってみようかと思った。

結局、行かなかったのだが、行くつもりでいたので、新幹線で読もうかと思い、『文学界7月号』 を買った。村上春樹が久しぶりに短編を載せていたからだ。

 

今日は、それほど暑くなく、どちらかというと涼しい方で、部屋の中にいると、外を吹いている風が木枯らしのように思えた。

村上春樹の短編を読んでいると、木枯らしの音と相待って、昼間なのに、深夜に一人小説を読んでいた学生の頃のように感じられた。

文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 
理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

 

昨日から、たまたま手に取って読み始めた。

既読書なのだが、また一から読みたくなった。

しかし、恐竜は一億五千万年生きながらえて絶滅したことを知ると、人類もいつか絶滅するという運命を受け入れざるを得ない。

なにせ、種の99.9%が絶滅して来たのだから。

淡い恋愛模様も、上司の陰湿ないじめも、穏やかな土曜日の午後の微睡みも、泡沫のごときものとなる。全ては過ぎ去った時間の堆積の中に埋もれて行く。

f:id:jauma1th:20180603094027j:plain

醍醐寺五重塔平安時代、西暦1000年くらいの頃の建造物である。

もう千年も経過している。これだけでも驚きである。

だから、一億年というレベルになると、これは人類の歴史を超えているというよりか、生命史レベルの問題で、こうした時間感覚を私たちが肌感覚で捉えることは難しい。

f:id:jauma1th:20171027224433j:plain

アルゼンチンがアイスランドと引き分けた。

少し驚いた。アルゼンチンは弱くなったのか?

サッカーも日本に根付いてきた。Jリーグが始まった時は、やっと日本もと思ったが、小学生の頃など、野球しかなかった。私の受け持ち担任は珍しくサッカー選手だったのだが、体育の時間はサッカーかと思いきや、器械体操ばかりさせる先生だった。

f:id:jauma1th:20180324071614j:plain

夜眠る前は、ヘッドホンをつけて音楽を聞きながら、眠くなるまで聞いているのが常だった。

最初はクラシックが多かったけれど、フォークやポップスやロックや色々なものを聞いて眠りについた。

ずっと書物を読み続けている夜もあった。風の音や雨の音が夜を通り抜けている。そんな時、物語の世界に入り込むことは、自分の体がどこか現実とは異なった場所に置かれている気がした。

仕事が嫌な訳ではない、生きるのが嫌な訳ではない、嫌なのは、単調な単層な世界に生きること。

私たちは決して、直線的な世界を毎日生き続けているのではない。私の中には、いくつもの異なった世界が並存し、並行して走っている。

私はそのいくつかの世界を同時に生きたいだけである。

山羊の頭のスープ

山羊の頭のスープ

 

 もう随分前に、ローリングストーンズは、『山羊の頭のスープ』というアルバムを発表した。

私も、長い間、よく聞いていた。その不思議なアルバムの世界に浸ることは、別空間への移動を意味していた。

ドラッグや宗教といった媒介を経ずとも、日常の少し先に異世界は開けている。

 

「どこに行きたい?」

「どこにも行けないよ」

「どこにも行けないから、どこにでも行けるんだよ」

深海

深海

 

 Mr.childrenも、『深海』から、複数の世界、闇の世界、異世界に接触する曲作りを始める。

 

連れてってくれないか

連れ戻してくれないか

僕を

僕も

 

それまでの単層的な曲から打って変わって、重みのある世界に移行した彼らは、新しい世界を畏れているようでもあり、惹かれているようでもある。

f:id:jauma1th:20180324074142j:plain

怖がることなんてない。怖いのは分かる。けれど、

 

今のとき ときが今なら この今を

ぬきさしならぬ 今とするしか

村上春樹「石のまくらに」)

敢えて行動する

f:id:jauma1th:20180304131354j:plain

今度の日曜日は父の日らしい。

正直に言って、全く興味がない。

私にとって、家族・父親・母親という存在は、空虚で、欺瞞がはびこり、でもそれらに帰属しているという、厄介な存在である。

 

世間では、「家族は仲良し」が最善の家族像のように語られる。しかし、現実の家族というのは、もっとザラザラした明け透けなものである。

私は、子供の頃、両親に大切に育てられた方だと思う。そのことに私はとにかく、感謝している。しかし、だからこそ家族の欺瞞性に敏感になっているのだと思う。

 

どういう家族が理想かと言えば、本心を素直にぶつけられる家族、子供のこと・親のこと、つまりは家族同士のことを、その場限りではなく、その先を考えて接することのできる家族が理想である。

 

やはり家族や両親のことを正確に語るのは難しい。簡単な言葉では表現することのできないニュアンスを語らないと、正確なことは語れない。

父親の成り立ち、母親の成り立ち、家族の成り立ちを、事細かに描いていかないと、正確な描写はできない。

 

一つ言えることは、大切な人と向き合って、その人のことを語るのは、とても力が必要ということだ。両足でしっかりと立ち、踏ん張って向き合わないと、本当のところは見えてこない。

大切な人のことを考えて語るだけでも、重労働なのに、その本人と直に向き合うのは、とてつもなく力が、勇気がいる。

だけど、それを敢行し、乗り越えていかないと、大切な人に接近することはできない。怖いのは分かっている。でも、やってみようと力を出すべきだと思う。

 

傷つくのが怖いか、傷つかないのが怖いか、正解がある訳ではない。どちらを選ぶかは、その人の生き方にかかっている。

舵を切り、舵を切り

f:id:jauma1th:20180603094248j:plain

私が、何もかも忘れて没頭してしまう作業の一つは、編集作業だ。

特に、映像の編集は一度始めたら、早朝から深夜まで休みなく続けてしまう。

最近は、全くやってはいないし、現在手元には、iphoneがある程度である。

文章・画像・映像の編集。そこからは、思いもよらなかったフォルムが立ち上がる。

 

素材を作り出したり、集めたりするのも、魅力的だ。

ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』を一つの文章から風船を膨らますように書いたと述べていた。

想像力を喚起する文章があれば、そこから、未知の空間に向けて矢を放つことができる。

 

日本を旅し、世界を旅して、写真を映像を文章を作り出していくこと。

そうした時間が手に入れば、望外の喜びだ。

 

江東区墨田区の下町の雑踏、尾道の丘の上から見下ろせる瀬戸内の島々、鹿島神宮の大鳥居や笠間神社の静けさ、阿倍野区辺りの平凡な街並みから浮かび上がる人々の日常の佇まい、そうしたありふれた日常の姿から、私の視線を介して現れてくる非日常な異空間に接触することが出来れば、それは素敵なことだ。

 

今日も早く起きた。

早起きは三文の徳。午前3時の静かな世界に浸ることは、私の世界に浸ること。ヴィトゲンシュタインの魂の時間。

深夜に目を覚ました

f:id:jauma1th:20180505174015j:plain

昨夜は、知らない間に眼鏡を外して寝てしまっていた。

深夜3時、目を覚ました。

自分がいつ寝たのか、全く覚えていなかった。起きたときには、何が起こっているのかも分からなかった。

 

いや違う。そうではない。何かが変化している。この部屋の中で、前とは大きく何かが異なっている。

 

変化のない日常。私たちを取り巻く環境は、平凡なままだろう。むしろ、変化を遂げるのは、私たちの方。

同じ日常に、変化を感じる瞬間。1日で新しい自分に変わってしまう日。そうした瞬間はあると思う。

私にも、そういう日はあった。

今また、突然、そうした瞬間が訪れてくれればいいなと思う。

f:id:jauma1th:20180505173850j:plain

朝、ネットを見たら、W杯開催の文字が入ってきた。

そんな季節か。少しワクワクした。

 

明日は金曜日。

週末に向けて世の中が動いているように感じるのは、私がそう感じるからだ。

週末のない人もいる。週末にとらわれない人もいる。

世の中は、私で成り立っている。私以外に世界はない。私=世界。

雨、僕は水色の中に

f:id:jauma1th:20180603094412j:plain

先日、仕事場で諍いがあった。

普段は仲の良い二人だが、環境や体調のちょっとした変化から、いつもは聞き流せる程度の一言が、聞き流せなかったようだ。

諍いは、仲が良いから起こる。関心のない間柄、表面的な間柄では、諍いなど起こらない。憎しみは愛情の一つである。

 

会社や学校など大多数の人間がいる集団では、複雑な人間模様が展開されている。

意外な人同士が繋がっていたり、小集団がたくさん存在したり、孤独なプレイヤーがいたりと、観察していけば色々なことが見えてくる。

f:id:jauma1th:20180603093348j:plain

昨日も雨だった。そろそろ梅雨の季節だ。

雨の日は少し憂鬱だけれど、雨音は好きである。

 

私は雨が好きなのだろうか?

雨に関する記事を過去にたくさん書いていた。

 過去に書いた記事で、私がよく問題にしている雨の主題は、「雨を媒介にした越境」というものだ。

雨によって会社を辞めた、雨によって問題を起こしたなど、雨が原因で変化が起こること、雨を媒介にして心情の越境・変化が起こること。

 

天気には、晴れ・曇り・雨・雪がある。

その中で、雨と雪は、物体としてH2Oが登場する。視界が、晴れや曇りとは異なるレイヤーに移行する。

この大きな視界の変動によって、心情レベルにも大きな変化を引き起こすのではないのか?

f:id:jauma1th:20180603093021j:plain

仕事がハードな時代、週末になると、時々、新幹線や列車に乗って、遠くの街にふらっと行ったりした。

溜まった仕事も、新幹線の中で片付けながら移動することで、気分転換と同時に気がかりな仕事を減らすことが出来て、一石二鳥だった。

私の方針は、原則、仕事は仕事場で完了させることであるけれど、例外が止むを得ず起こることはある。

残業を自分で管理してやりくりできる場合は、残業して仕事は全部やって帰っていた。

でも、そうではない下っ端の会社員時代だと、残業できない場合があるので、仕方なく自宅でやっていた。

友人にも、週末になると、必ず近場の海外に行くのがいたけれど、やっぱり仕事ってストレスが溜まる。

f:id:jauma1th:20180603093835j:plain
気分転換レベルで済む場合は、大丈夫である。自分の力不足で仕事ができていなかったりするからだ。

問題なのは、自殺するレベルにまで追い込まれて、仕事と向き合わなければならなくなる時だ。

日本の会社の場合、上からの命令は有無を言わせない圧力があることが多い。

真面目である人ほど、真剣な人ほど、日本会社の陥穽に陥ってしまう。

 真面目な人ではなくとも、巨大な・強大な覆い物、会社・社会という天蓋、これに抗うことが不可能になってしまう場合もある。

f:id:jauma1th:20180603094210j:plain

例えば、雨が、異世界へ・別世界へ開かれるきっかけとして機能することの社会的な意味。

それは、日本社会では重要な機能を担っているように思う。

現在の状況に縛られている必要はないし、突破口は必ず存在する。 

f:id:jauma1th:20180610185313j:plain

梅雨だけではなく、農耕社会日本と雨は切っても切り離せない密接な関係にある。

天気雨、驟雨、霧雨、俄雨などなど、雨に彩られた我々の社会。

生真面目すぎる我々の社会。雨に、天候に、心模様を託して生きてみるくらいの方がいいのではないか。

 

今日は灰色

今日は灰色

僕は水色の中に

今日は灰色

 


RADWIMPS アメノヒニキク 【人間開花 ライブ音源】