ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

人の闇に潜む神の冷徹な瞳

f:id:jauma1th:20180317173217j:plain

 

週末、夕方外に出たら予想以上に寒かった。

昼間は部屋にいて『ブレードランナー2049』を観たり、音楽を流したりしながら、仕事の準備をしていた。

この4月から部署の総責任者になったので、時間の流れ方が今までと違う。

これまでも責任者を、以前の会社も含めて任じてきたが、今までと違い、悪く言えば、仕事をせずにサボろうと思えば、いくらでも手を抜けるポジションであることが見えてきた。

「権力は腐敗する」という例の、末端的な位置にいるのだろう。

しかしながら、何事に対しても真面目な方である私は、自分なりの計画を立てて、進んで行くだろう。一緒に働いている人のストレスを、少しでも楽にしたい思いがある。計画・実行・反省というサイクルを通して、人を動かすことの実態・実効性を考えたい思いもある。

 

ブレードランナー2049』は、繰り返し見ても飽きないし、映像と音楽がマッチし、『ブレードランナー』と絡めたストーリーの紐解きも面白い。

ミスチルApple Musicで解禁になったので、ずっとかけっぱなしで聴ける。連続して聞いていると、彼らの音楽の変遷・変化が分かる。

『深海』『シフクノオト』『SENSE』にそれ以前とは違う曲作りが見られる。

『深海』から、現在に続くミスチル的な音楽が始まったように思う。

それまでは、恋愛を中心に歌い上げる和製ビートルズ的な曲が多かったが、『深海』頃から、社会や日常生活の奥に潜む空洞・闇を感じさせる曲が登場する。

もっとも、初期のカテゴリーの曲を詳細に観察して、そこに微細な変化を見つけるのも面白い。

 

仮面を着けた姿がだんだん様になって行く

飾り立てた言葉を吐いては

 

軽い風邪にかかった。風邪薬を飲んだ。流行っている様子だ。

 私は扁桃腺が大きいので、まず喉の痛みから風邪にかかる。

 『ショーシャンク』の中に、刑務所の所長が主人公に、聖書の「君はどの節が好きだね?」と問いかける場面がある。

欧米人であれば、聖書に少しは親しんでいるので、こういう質問もありうるのだが、聖書には膨大な教訓めいた説話が収められていて選り取り見取りである。

日本人なら、こういう共通の書物ってあるのだろうか?

「君は漱石の小説の、どのエピソードが好きだね?」って、ないだろうな。

ちなみに、私が気になる漱石のエピソードは、『道草』の最初の方に登場する、主人公を道端でじっと見つめる男のエピソードである。このシーンは、この小説の暗いトーンを形成していて、その男の下品な視線が、気になってしまう。 

道草 (新潮文庫)

道草 (新潮文庫)

 

 

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。

見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

 

私が好きな聖書の一節としては、コリント書の上の一節がある。

これは、『星の王子さま』にも見られる「一番大切なものは目に見えない」という有名な一節と通じるものがあり、好きである。

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

 日本には宗教は根づきにくいが、場を同じくするものと連帯して行く風土がある。

f:id:jauma1th:20180317102943j:plain

 芥川龍之介「大川の水」には、大川への愛が語られている。

 

 自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥濁どろにごりのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落したいような、言いがたい慰安と寂寥せきりょうとを感じた。

 

人には、故郷を始め、懐かしさ・落ち着きを与えるものが必要だ。

家族・恋人・仕事仲間・地域社会・サークル活動といった人のサークル、故郷・都市景観・景色・街といった人が接する社会の整備、を通じて、人に落ち着きを与えることが、とても大切だと思う。

人や社会や環境との連帯が失われれば、そこに闇が発生する余地ができてしまう。

 

仮面を着けた姿がだんだん様になって行く

今日も1人立ちすくむ僕を

もう一度支えてよ

 

現代社会、人との連帯が失われつつある時代、そこに顔をだす闇

神はなぜ悪が闇があるのに放っておくのか?

それは悪・闇も含めて神が創造したものだからなのか?

f:id:jauma1th:20170430112802j:plain

私たちも、この社会も、遠い昔の成り立ちから比べて、遠いところまで来てしまった。

出来ることは限られている。

その日1日を平穏に過ごせればいいのかもしれない。鳥が飛翔するように、波が来ては返すように、山が丘がそこに泰然と佇んでいるように、自然に身を任せるのがいいのかもしれない。

西城秀樹が死んだ

f:id:jauma1th:20180317173646j:plain

 西城秀樹が亡くなった。

びっくりした。誰もが死んで行く運命にあるのだけど、驚いた。なぜなのだろう?

私たちの時代が少しずつ過去になり始めたことを、西城秀樹の死が告げ知らせているからだと思う。

 

人の死で、衝撃を受けたのは、祖母が死んだ時だった。

末期癌で、見ているのが辛かった。もうそんなに長くないのは分かっていたけれど、死の知らせを聞いた時は、涙が止まらず、本当に悲しかった。

大事にしていた愛犬が寿命で死んだときも辛かった。昨日まで一緒にいたのに、もう一緒にいることが出来ない。

そのどうしようもなさは、なかなか消えて行かないし、祖母や愛犬の死を体験した時の残響は、今も私の中で響いている。

 

私は、両親に大事に育てられたせいか、性格のためか分からないが、ある年齢まで汚いもの・辛いもの・悲しいものを見ないで生きてこられたと思う。

だけど、年齢を重ねるにつれ、世の中の悲哀・不合理・矛盾といったものに、出会わざるを得なくなった。

 

死はその最たるものだ。

だけど、これ以上ない悲しみに出会って、それを乗り越えた時、人は強く、そして優しくなっている。これは間違いない。

「僕の不可避。」飛んで行くことが出来ないのならば

f:id:jauma1th:20171027223106j:plain

itunes始め、各配信サイトでMr.Childrenの全曲が配信され始めました。

とても喜ばしいことです。


Mr.children over 中文字幕

「over」など和製ビートルズばりの名曲は、現在聴いても素晴らしい。

坂本龍一のドキュメンタリー『CODA』も配信され始めました。

何に生きる意味を見出すか?

坂本龍一は、音で、音楽で、自身の生を問おうとした。


keyakizaka46 6thsingle収録 「夜明けの孤独」高音質

欅坂46平手のソロ曲は、年少者の生きる意味を自問する。

 

夜明けに家を出て

過去なんか捨てたけど

自分のその足音が

追いかけてくるんだ

 

誰にも気付かれず

どこかに消えてしまいたいよ

影もできない

まだ薄暗い街

 

「僕の不可避。」

生きていく意味を問うことを、避けることはできない。

それは、私たちに纏わりつく糸のように、離れてはくれない。

 

飛んで行くことが出来ないのならば、地を這ってでも進んで行くしかない。

「僕の不可避、僕たちの不可避。」

自然体という癒し

f:id:jauma1th:20171008113453j:plain

テレビを全く見ない私が、先日、たまたまネットで放映していたNHK番組『プロフェッショナル』を見た。

スガシカオの歌がエンディングで流れる番組だ。まだ続いているんだと思った。

その回は、北海道の書店店主の仕事の流儀だった。

この店主は1万円選書と言って、ネットを通じて当選した人にアンケートを書いてもらい、そのアンケートをもとに1万円分の本を選んで配送するという仕事を行っている。

とても人気で、3000人待ちらしい。

 

選書を贈られた人は、贈られた本にとても感動し、悩みや怒りや憤りを緩和させているようだ。この選書がこうした効果を持つ秘密は、カルテと呼ばれるアンケートにある。過去に読んだ本、現在抱えている悩み、履歴といった情報を書き込むようだ。

このカルテは、まさにカルテであり、フロイト博士のごとく、応募者の症状に適合した書物を、店主が読書履歴から選書する。

 

こうした症状への応対は、書物だけでなく、音楽・映画を使っても行うことができるだろう。しかし、おそらく書物が一番ぴったりするメディアだと思う。それは、音楽や映画が一方向的に流れ込んでくるのに対し、本は自分から能動的に動かなければ、何の情報も入ってこないからだ。

一万円選書は、自分から積極的に応募し、自分を変える書物に出会いたいという動機から開始される。それならば、その積極性の延長線上に読書行為を位置づけることが、一番理に適っている。

 

一万円選書で選ばれる本。

もしも私が応募したらどんな本が届くのだろうか?興味深い。私もいろいろな本を読んできたが、やはり偏りがある。新しい分野の書物に手を伸ばす切っ掛けに、一万円選書の考えを借用するのもいいかと思う。

f:id:jauma1th:20180317103106j:plain

私は、とにかく週に一度は必ず本屋に行く。

そして、読みたい本があれば買う。あとは、ひたすら読む。その繰り返し。

読みたい本がたくさん出版される時もあれば、ほとんどない時もある。

だけど、必ず本屋に行く。昔は図書館にひたすら通って本を借りていた。だけど、すでに発売されている読みたい本は、持っているし、新刊を探しに、今は本屋しか行かない。

 

GW、ソファの前に並んでいる本棚を眺めながら、思いついた本を手に取って読んでいます。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 

若手の学者が書いたものでヒットしている作品だけれど、地道な研究の成果を書き記した新書だと思う。

応仁の乱って、確かに小学校から教科書に載っていて知っている事件だけれど、事件の中身は?というものだと思う。

これは応仁の乱に限らず、歴史的な事件は、ほとんどが?だと思う。まあ、日常生活に必要ないし、興味ない人にはどうでもいいことだし、実際どうでもいいと思う。

だけど、未知の事件を本当に知ることがどういうことなのか、本書を読むことで齧れると思う。

 最近、『東京喰種』については触れたけれど、この作品は現代社会に警鐘を鳴らしている作品で、登場人物・ストーリーから目が離せないし、その圧倒的な暴力性と優しさが同居する稀有な作品だと思う。

人間サイドもグールサイドも、一癖も二癖もある人物のオンパレードで飽きさせないし、戦闘シーンの描写力は凄まじい。

SFではあるが、生命や種をどう考えるのか、深く考えるための素材が詰まっているし、生命界にあってグールなのは、我々人間であるという重い事実をどう考えるのか、という、はぐらかしてしまいそうな問題を突きつけてくる。

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

 

 大阪の町の成り立ちが分かる。日本列島全体がそうだけれど、古代にまで遡ると、大阪は全くの別の土地である。

大阪には半年ほど住んでいたことがあった。だけど今は行きたくない町の一つだ。正確に言うと、行くことが難しい町だ。

フロイトが長い間、イタリア旅行に行けなかったように、私も大阪になかなか行けないでいる。だけど、何とか行けるようになりたい。その取っ掛かりになるといいのだが。

スター・ウォーズ「新三部作」完全解読本

スター・ウォーズ「新三部作」完全解読本

 

 昨年12月に公開されたSWエピソード8。

劇場に足を運んだものの、さっと1回見て帰ったので、中味をじっくり理解できないままだった。

つい最近、映像が配信され始めたので購入し、おまけの映像や音声とともに楽しんでいる。

SWは、アナキン・スカイウォーカーに始まる謎めいた「スカイウォーカー家のクロニクル」であり、宇宙を舞台に「善と悪の反転・縺れ・対立」を描いた一大叙事詩である。

この本は、EP1から始まる3部作についての解説書であるが、SWシリーズ全体を理解する上で参考になる。

荒神 (新潮文庫)

荒神 (新潮文庫)

 

 宮部みゆきは、急に読みたくなって読み出し、また全く忘れてしまって本棚の奥に眠ってしまう。

火車』『理由』『ソロモンの偽証』など、現代の松本清張のごとき作品だけでなく、藩の対立を描いた『荒神』のような時代小説も、宮部みゆきの得意とする作品である。

f:id:jauma1th:20170430180517j:plain

GWも半分ほど経過しました。

旅行に行こうと考えていたのですが、天候・アクシデントから、遠乗りは辞めて気が向いたとこに行こうと思ってます。

ふと今思い出したのですが、西武線沿線に住んでいた頃、GW辺りに、恋ヶ窪駅という西武国分寺線の駅に降りたことがありました。

その駅にポスターがあって、全国の駅で恋という言葉が入る駅は、3つか4つしかないと書かれていました。確かに見たことないなあと思いました。

 偶然降りた比較的近所の駅なのに、その駅が全国レベルのエピソードの駅とは全く知りませんでした。

旅行というと、遠出と考えがちですし、近くの駅では旅行と呼べないのも事実なのですが、案外気張らずにふらっと出かけた場所が、遠くであれ近くであれ、印象に残るものです。

 

読書もそうですが、旅行も外出も、頑張りすぎずに、自然体で、直感で閃いた方に向かえば、満足し、癒されるひと時になるのではないでしょうか?

GW、まずは睡眠

f:id:jauma1th:20180330184301j:plain

職場で、Aさんに「あなたが一番仕事がしやすい方法で取り組んでくれたら良いですよ」と言った場合、その影響で、Bさんの仕事がやりにくくなったとする。

反対に、Bさんに好きなようにやって良いよと言った場合、今度はAさんがやりにくくなる。

 

こういう場面は、少なからず職場にある。

解決方法としては、中庸を取るか、AさんとBさんが属する職場全体の環境・条件を見て、他の人の動きや条件を変更するか、AさんとBさんの仕事自体を見直すか、などが考えられる。

 

こうした場面は、職場だけではないが、責任者が何とかしてくれれば解決してしまう問題であると思っている人が一般的であるように思う。

勿論、責任者サイドの問題であることも多いし、人員配置・仕事量の見直し・仕事方法の見直しなどで解決してしまう場合も多い。

 

しかし、問題を職場に限らず拡張した場合、この問題は、「自由と愛の問題」として語られることになる。

すなわち、個人が自由に、自分の裁量で行動すること、と、個人が愛を持って、相手のことを考えて行動すること、この「自由と愛の問題」は互いに相反する問題として、まずは立ち現れてくる。

両者が自由を主張すれば対立してしまう、両者が愛を持って譲り合えば平穏に行く、片方が自由を片方が愛を主張すれば、双方のバランスが崩れ、片方の負担になる。

 

局所的・個人的・部分的と見做していた問題も、実際は普遍的なテーマに直結している。

けれど、だからと言って、「その問題は、根本的な解決が難しいから、棚上げにしておくね」という発想に持って行ってはならない。

不断の思考や行動が、根本的ではないにせよ、目の前の問題を軽くすることに繋がるだろうし、そうした積み重ねこそが、日々を生きることに他ならない。

f:id:jauma1th:20180330113402j:plain

GWに入りましたが、普段の疲れのためか、初日は本を読みながら寝て、また起きて本を読み始めたら寝ての繰り返しで、いつもあんまり寝てないなあ、と染み染み実感しました。

やっと、二日目になり、何とか寝ないでも本が読めるようになり、映像や音楽も目や耳に入ってくるようになりました。

 

冒頭いきなり、仕事の愚痴っぽくなりましたが、ブログもできるだけ書けたら良いなあと思っています。

戦略と曖昧さの隙間を生きる

f:id:jauma1th:20180318104816j:plain

あと1週間ほどでGWに突入する。

また、どこかに行こうかと思う。大分、富士山、紀州、金沢、舞鶴、倉敷など、候補はいくつかある。旅行熱がまた復活してきたみたいだ。

 

父親に連れられて、子供の頃から映画をよく見にいった。

邦画・洋画問わず、多くの作品を見た。

その中で、毎年必ず見に行く映画があった。お盆と正月映画の寅さんシリーズである。いつも二本立てであり、ドリフターズ映画や釣りバカ日誌などが並行して上演された。

このシリーズは、高度成長期からバブル崩壊期まで続いた、言わば戦後日本の豊かな時代と軌道を同じくした映画だった。

日本は総中流社会となり、どの人も皆、結婚し家庭を持てた時代だった。その中で1人、結婚できない男が寅さんだった。大ヒットしたこのシリーズに、観客は何を見ていたのだろうか。

私がこのシリーズの中で、今でもなぜか気になっている作品が、第30作である。

その舞台が大分県の湯平温泉・臼杵市杵築市であり、一度行って見たいとずっと思っていた。

 

富士山はなかなかその全貌を表さないし、GWの好天気に撮影したいと思ったりする。

紀州は、近そうで遠い国である。日本で最大の半島、紀伊半島は、最南部に行こうとすると、結構な時間がかかる。

金沢も一度行ってはいるのだが、サンダーバードで簡単に行けるし、もう少しゆっくり行って見たいなと思う。

舞鶴は、赤レンガ倉庫の撮影や舞鶴港への引き揚げ資料館など、海と港と戦後への関心から、倉敷も何度か行ってはいるが、臨海地帯の方へはまだ行っていない。

 

日本列島は、多くの都市の風景が似たり寄ったりになってきた感がある。しかし、それは、都市部や人が集まる地域だけであって、もっと丁寧に日本列島を見ていけば、その地方独自の風景がたくさん残っている。

日本の風景が同一化しているという言説自体が、一人歩きしている。

f:id:jauma1th:20180330195333j:plain

高度成長期、寅さん映画の時代、人は猫も杓子も家庭を持った。

21世紀日本、人は様々な生き方を見つけ歩き出している。

非正社員、一人暮らし、一生独身など、ネガティブなイメージで語られるが、それは、結婚・家庭を持つということが標準・常識・幸せであるという前提に立って、その観点からの評価に過ぎない。

多様化してきた生活スタイルを持つ現代にあって、組み合わせは多種多様である。

結婚はしないが老後が1人で心配だという。しかし、ならば、家庭とは別の方法を考えたらいい。友達や近所や地域社会との密接な関わり。サークル活動や宗教活動への参加で、人の繋がりを広げることもできるだろう。

人はそれぞれ、自分の生きたい生き方を見つけ、それを生きるべきだと思う。

 

若い頃、千波湖近くで、自分はこの先ずっとこのまま我慢して、生きていかなければならないのかと思った時があった。

現況に対する鋭い分析、本当に自分は何がしたいのかという思い、それが本物でなければ、どの道も笑顔で歩むことはできない。

千波湖の水は深く、荒々しく、どうしたら前に進めるのかと思った。あれから何年も経過したけれど、今なら冷静にあの湖を眺めることができると思う。

 

何はともあれ、社会を世界を、まずはポジティブに見つめることが大切だと思う。

f:id:jauma1th:20180317151720j:plain

 ある金融機関で働いていた頃、全国1位と2位の営業マンが在籍する部署に所属したことがあった。

その2人は営業方法が対照的であった。

1人はとにかく、朝会社に来たら一日中外回りをして、帰ってくる気配がない。もう1人は外出は一切せずに、ずっとデスクに座って電話をかけまくっている。

全国規模レベルでのツートップの営業成績は半端じゃなかった。だから、2人に共通することは、まず営業の数が並外れていたことだった。

つべこべ言わずに、ひたすら営業していた。数を当たらないと契約は取れない。

私は2人の方法をいつも観察していたし、時には一緒に外に出かけたりした。

電話派の営業マンは、電話応対のチャートを作っていた。こう言って来たらこう返す。次にこう切り返して来たら、こちらはこう切り返す、という風に、事細かく枝分かれしたチャートを敷いて、電話していた。

もう1人の外回り専門の営業マンは、数はこなしていたが闇雲に当たるという間抜けな方法は採用していなかった。何の情報もなく、一軒一軒回ったとしても、まず契約に結びつかない。営業は単に数ではない。情報に基づいたターゲットを数多く当たることである。

彼の武器の一つは、紹介であった。ある業種の人の契約を取ると、その同じ業種の人を潰しにかかる。例えば、歯医者さんから契約を取ると、その人の紹介から他の歯医者を紹介してもらったり、その業種が何を望んでいるかが分かるから、戦略が立てやすくなる。

また、彼は話術や勧誘技術を磨くために、仕事の合間に、ひたすらナンパをしていた。これも彼の仕事に直結していた。

 

ひたむきな努力は必要だが、戦略という拠点がなければ疲れるし、面白くない。優秀な営業マン、優秀な学者、優秀な医者、、、には、必ず明確なビジョンと戦略があるし、人を納得させる力がある。

 

とはいえ、正直言って、戦略やビジョンも必要だけれど、もう少しいい加減にやった方が、いざという時、柔軟に対応できると思う。

 

GWは、旅に読書に映画に音楽に、少しは仕事の方針も考えてやって行こうと思います。

また私には、他に一つやらなければいけない重要なことがあるのだけれど、それこそ、戦略と努力というよりも、あまり深く考えず行動した方が良い結果を生むのではないかと思う。

喰種を超える宗教の陥穽

f:id:jauma1th:20180330151913j:plain

桜の時期もあっという間に終わってしまった。

今日、街中を歩いたら、桜の木はすっかり葉桜に変わっていた。

 

暖かくなる3月の終わり頃から、あの世の現し身のように、突然、桜は咲き誇る。

もしかしたら、この世以外の世界があるのかも知れない。

一瞬で咲き乱れて消えて行く桜の花は、あの世との繋がりを連想させる。

 

人間のような生物が人間を喰らうというテーマは、現在のサブカル領域ではお馴染みである。

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 1988年の『寄生獣』に始まる人間界に混じり人間を喰らう異性体の物語は、そのあと、『東京喰種』や、最近では、『約束のネバーランド』へと受け継がれている。

 人間が人間を喰らうというテーマが意味するところは、結局、生命体という観点から見れば、私たち人間もまた、食糧の一つに過ぎない、生存競争において喰われるリスクのある生命体に過ぎないということである。

 

考えて見れば、生命体の王様というだけで、数々の生命を奪って食事としている人間は、自分たちの都合のいい論理で生きているに過ぎない。

ならば、例えば、『約束のネバーランド』で、順番に食糧として出荷される子供たちは、牛や豚や鶏と変わらないし、牛たちにしてみれば、当然だろう。

こう考えると、人間社会は、エゴイズムに満ちた社会と言える。

 

こうした矛盾を乗り越える実践的な論理を見出すのは、難しいだろう。

そうならば、あの世を含めた、この社会を超えた世界を想定し、神を登場させて、この世の一切の矛盾を神の造形物として、一点に集約してしまう方法が考えられるだろう。

 

宗教は、突き詰めてみれば、矛盾に満ちた社会の前提を、神に収束させて、整合的にこの世の摂理を説明するところにある。

だから、どういった前提を引き受けるかで、数種のヴァージョンが存在し、いくつかの宗教が存在することになる。

 

現在存在している数々の新々宗教もまた、来世・あの世をどう考えるかが大きなメルクマールだろう。

オウム真理教にせよ、エホバの証人にせよ、統一教会にせよ、幸福の科学にせよ、来世の概念がキーワードであり、それは当然のことだろう。

私は、日本人の多くが、こうした新々宗教に批判的・異端的視線を浴びせること自体、日本的だと思うし、新々宗教が隆盛を迎えていることは良いことだと思う。

それは、社会・世界の自明性を疑い、隠蔽されている社会の非合理を明晰にし、論理的に乗り越える契機となるからだ。

 

けれど、私は、特定の宗教に帰属しようとは思わない。それは、ある形式と論理を持つ宗教に帰属することで、必ずその観点からしか世界を見れなくなってしまうから。

あくまで、どこにも帰属しないことによって、どこにも帰属できるようありたいと思うのが、私の戦略である。

 

しかし、例えば、ある宗教に帰属している人が気になり、恋愛感情を抱くようになった場合、どうしたらいいのだろうか?

自分の家族や親友が、ある宗教に入信していった場合、どうしたらいいのだろうか?

こうした一連の問題は、愛(恋愛、家族愛、友人愛)と信仰の問題として、人の人生に大きな岐路を出現させる。

現代にも、人と人を遮断してしまいそうな壁は至る所に潜んでいる。