写真は、現実を写し取っていると見られている。
しかし、カメラの操作で、写真は現実よりも明るくなったり、色が青くなったりする。
つまり、カメラがもう一つの現実を構成する。
さらに、カメラを操作する人の嗜好や見方によって、現実はいかようにも写真の上で姿を変える。
そもそも、現実などあるのか?
ある事件が起こる。当事者、ニュース記者、それを読む人、、、その事件を巡って、いくつもの事件の姿が立ち現れる。一体、どれが現実なのか?
芥川龍之介『藪の中』や、それを元に作られた黒澤明『羅生門』は、見た人の数だけ違った現実が登場する。
村上春樹『1Q84』は、現実と似たもう一つの世界の物語だが、このもう一つの世界自体が現実でもあるのだ。
富山市に行って来た。
子供の頃に行って以来、久方ぶりの富山県である。昔の記憶はあんまりないから、初めて来たような街だったし、富山駅もモダンになり、北陸新幹線も開通して、駅や駅前は思っていた以上に整備されていた。
街中をぶらぶら歩いていたら、やはりまだ北陸の一地方都市から脱却できていない感じを受けたけれど、どこもかしこもイオンや吉野家やコンビニという風景もつまらないから、これから街の整備を行っていくなら、富山市独自の風景を保持して行って欲しいと思う。
金沢市は、もともと発達した城下町ということもあって、土台自体が独自性を持ってはいるものの、金沢市ならではの印象深い風景を作り出している。
富山で休む。遠くの街に行って休息を取る。
旅行というよりは、日常の延長線上に、普通に非日常を浮かび上がらせるゆったり感を伴ったトランスファー。
手を抜かず、冷静に社会を見つめていたい。
このガラス館兼図書館は、居心地が良かった。
静かに行き交う人、読書する高校生、写真を撮るカメラマン、、、。
人それぞれの思い。交差し浮遊する感情たち。
現実、いくつもの現実、百家の現実。
どの現実も興味深い。