ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

ノリタケの森、都会のオアシス

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少し遠くへ、速く行きたい。

週末近くになると、いつもそういう思いに駆られる。

 

今週は、名古屋のノリタケの森に行ってみた。

名古屋駅から15分くらい歩いたところにある。そんな近くにあるんだと思った。

名古屋は、割と都会の中のあちこちに公園がある。

  

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駅から森へと続く道には、ビル群のオフィス地帯。

 

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ノリタケの森は入場無料

 

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座る椅子やベンチも、あちこちに設けられている。

 

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ノリタケの磁器も販売されている。併設のカフェやレストランもある。

 

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許可を取って撮影したのだけれど、店内撮影禁止って書いてあった。

 

天気も良かったし、相変わらず暑かったけれど、写真もたくさん撮れて満足でした。

 

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 生まれ変わった大名古屋ビルヂングも出来上がっていました。

RAIN、雨の日も嫌いじゃない

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 先日、関東地方で落雷があった。

子供の頃、まだ避雷針がそれほど発達していなかったせいか、橋の上などで落雷にあって命を落とす人があった。

家で飼っていた犬は、雷を怖がった。雷が鳴ると、軒下に体をうずめた。

 

広い関東平野を自転車で走り回っていると、急に大粒の雨が降り出したことがあった。幸い雷は鳴っていなかったが、避難する場所もなく、雨に濡れながらひたすら家へと向かった。

先日も歩いていたら、急に雨が降り出した。

 

こんなこともあった。

東名高速をオートバイで走っていて、長いトンネルを越えたら土砂降りの雨で、びしょ濡れになりながら我慢して、次のPAでカッパを着た。

夏だから良かったが、いきなりの雨には本当に驚いた。

 

晴れの日、雨の日、曇りの日。

雨の日はマイナスのイメージを持たれやすいけれど、雨の日も嫌いじゃない。

工夫すれば、快適に暮らせるし、外出だって全然気持ちよくできる。

長靴に、ゴアテックスのカッパの上下、この服装なら、雨の日が楽しくなる。

まあ、私は今はどちらも持っていないので、普段と同じ格好なのだが、でも雨の日は嫌いじゃない。

 

雨音が好きなんだろうか?

雨の日の散歩も、人がいないし、昼なのに夜のような人口密度の低さも、好きなのだろうか?

あまり書けないけれど、近況を

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映画「君の名は。」が配信され始めた。

なので、ここ数日、仕事の準備をしながら、バックに「君の名は。」を流している。

最初は、映画館で1回見ただけなので、細部はうろ覚えであったし、入れ替わる二人が生きている時間と空間も、なんとなく理解していた感じであった。

今もなんとなく流して見ている感じなのだが、ああそうなんだ、みたいな発見がある。

何度かしっかりと見れば、この映画の複雑な構成が見えてくると思う。

例えば、RADWIMPSの歌詞のある歌が数曲、流れるが、これらも独立した歌詞ではなく、それぞれの歌詞が他の歌詞と関連があり、繋がっている、とか。

 

ここ数日、村上春樹の『女のいない男たち』を通勤途中に読んでいる。

一度読んでいるのだが、ふとまた読み始めた。

この短編集も、6つほどある小説が独立していながら、お互い他の短編を支え合っているし、説教じみたセリフの中に、痒い所に手が届く空気感が漂っている。

 

ドラクエⅪが発売されたので、少しずつやっている。

そんなに熱狂してやっているわけではないのだが、ストーリーも、そこそこ面白いし、暇つぶしにはもってこいかなと思う。

 

近頃は、長い間全く聴いていなかった槇原敬之の歌を聞くようになった。

忘れていたわけではないのだが、何年も聴いていなかった。

最新のアルバムを聴いてみたら、同じように、平易な日常の言葉で日常の風景を映し出す歌詞が、槇原のメロディに乗っかって進行していた。

 

夏も少しずつ収束しつつあるのだろうか?

木々が、青葉が、青空が、近い未来を映し出しているように思える。

鳥辺野を散歩する

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しばらく家に籠っていたので、今日は夕方、出掛けてみた。

どこということはなく、何となく、いつもよく行くラーメン屋に行って、本屋に寄って、帰ろうかとも思ったのだが、写真を撮ろうとも思ってきたので、電車に乗って、清水五条まで行った。

 

上と下の写真は、いわゆる鳥辺野と言われた風葬地帯に、現在横たわる墓地である。東山の麓に広い範囲にわたって墓が連なっている。

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写真を始めた頃に撮影したのは、化野念仏寺であった。
nyan55.hatenablog.com

化野は、京都の過去、それもずっと遠い過去を感じ取らせる稀有な場所だと思った。

今日行った鳥辺野は、化野と比べると、清水寺や祗園が近くにあることもあって、かなり現代化されていて、墓も現在に繋がる人々の墓であって、ここから昔の京へと飛躍するのは少し想像力が必要かなと思えた。

 

京都の風葬地帯には、鳥辺野・化野と並んで、もう一つ蓮台野がある。

蓮台野は、紫野の船岡山の側にある。

蓮台野は、子供の頃に船岡山にたまに行っていたせいか、雰囲気は何となく覚えている。

 

京の町は、21世紀を迎えて現代化しているとはいえ、少し目を凝らして歩くべきところを歩けば、この町が、死者や亡霊や化物や妖怪といった、この世界を超えた異界に浸され、そこからの力によって守られているのを、人によっては感じ取るかもしれない。

 

帰りは、近くのスーパーで、珍しくお酒を買った。紹興酒だ。

このお酒は、学生時代によく飲んでいて、久しぶりに買って飲んだ。懐かしい味がした。

 

今日は、電車の中でずっとkindleで本を読んでいた。

kindleは、というか電子書籍は、場所によっては読みやすく便利な書籍だ。私は、基本的に電子書籍は読もうとは思わない。衝動買いで、買うときもあるけれど、あんまり読まない。

どうも、本の厚みがない文章を読むのが、しっくりこない。

便利だとは思うし、場所も取らないからいいのだが、電子書籍も、何かもう一工夫しないと、紙の本を超えることはできないと思う。

もちろん、紙と電子の書籍が共存して行くのがいいのだろうが、電子書籍の薄っぺらさが気にかかる。イメージとしては、電子書籍で本を読む行為を、紙の本を読む行為に近づけられればいいのではと思う。

 

電子書籍とはまた違うが、電気自動車も気になる商品である。

普通の自動車・ハイブリッド・電気自動車、この三対が今後、どのような展開を見せて開発、販売、消費されていくのか?

これはなかなか注目に値する面白い焦点だと思う。

 

しかし、夏の京都は暑い。少し歩くだけで、汗びっしょりになった。

横に伸びる建造物、茫漠とした広場

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写真の構図として、横に平行に伸びる構図、上の写真のように横長で整頓された落ち着きのある構図を撮影するのが、心地いい。

この写真は先日撮影した下関駅前のビルの写真です。

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上の写真のような構図を、比較的有名な作品で言うなら、エドワード・ホッパーの上の作品「日曜日の早朝」などは、見ていると落ち着けて、色々と想像できる。

どんな人がそこで生活していて、日曜日の朝早く、まだ寝ているんだろうなとか。

 

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広い広場で、空もはっきりと見渡せる。こうした場所を撮影するのも気持ちがいいです。青い空と雲が、まるで、空ってこんなんだっけと思わせるほどに、くっきりと写されています。

この写真も先日の下関タワー近くの広場の写真です。

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デキリコの描くイタリアの風景にも、茫漠とした空間が登場します。

遠くまで見渡せる広い広場。

 

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デキリコの作品で一番有名で、私も大好きな絵は、この「街角の神秘と憂鬱」でしょう。

たまたま、パソコンで見ていたら、この作品と同じ画面の中に、次のような写真がありました。

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この作品は、キリコの作品の一部を切り取っていて、少し離れたところから、少し違った角度から、輪回しの少女を捉えています。

今まで、キリコの「街角の〜」はただ、不思議な絵だな、既視感を感じさせる絵だなと思っていたのですが、それ以上は考えもしませんでした。

偶然パソコンで見たキリコ模写の作品は、キリコの「街角」が、360度の周囲への想像を膨らませれば、また別の解釈やイメージが湧いてくるのではと思いました。

 

考えてみれば、キリコの作品は、どれも似ている作品が結構多い。

「街角」の前に載せた作品も、「街角」と似ている。

そう考えれば、輪回しの少女の行く先には、上の銅像と広場が待っているとも想像できる。そして、さらにそこから様々な想像が広がって行く。

 

少し、世界が広がったように思います。

2017年の終戦記念日

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岡山駅西口の線路すぐそばのベンチ

 

夕方、16:30くらいだったろうか、日が傾きつつあって、漸く日中の暑さも収まりかけて来た。

そのことと並行して、夏も少しずつ収束し始め、次の季節、秋に向かって舵を切っている。

岡山の秋、地方都市の秋

そうした言葉に、止めどなく、自分の過去の記憶や風景が浮かび上がり、現前する。

流れ行く景色、一瞬の風景の移り変わりの中にも、何かを思わずにはいられない。

 

秋はやってくるのではない。

秋はいつも夏と隣り合わせで、夏の裏に貼り付いている。

夏が暑いというのは、その否定として、暑くない秋が控えているということでもある。

 

小倉や博多に足を運んだためか、松本清張のことを連想した。

『点と線』のドラマを見たり、小説を読んでみたりした。

東京駅での4分間のトリックが有名だけれど、この物語には、昭和30年代頃の風景が色濃く書き込まれている。

4分間のトリックも、新幹線や飛行機が本格的に登場する直前の、移動手段として列車が主体の、日本列島を念頭に置いているトリックという点で、時代を反映していると言える。

 

この物語には、未だ戦争の影響から離陸できない日本社会における人間関係が、殺人の動機として背景にある。

現在でも、世界で唯一、日本だけが戦後70年といった言い方を使っている。

戦争の影響から抜け出たということは、間違い無いだろう。けれど、アメリカの影響や慰安婦の問題など、現実の政治上の問題が、戦後というレジームを引きずっていることも確かだと思う。

 

しかし、日本が未だ戦後という言葉にリアリティを持って、その圏内に留まっているのは、明治時代に近代化を迎え、第二次世界大戦に破れるまで突き進んだ、日本的精神の一つの傾向として、戦後という言葉がその傾向を示している言葉だからでは無いだろうか、と思う。

つまり、明治から終戦まで続いた戦争へと突き進んだ精神は、今も日本社会に息づいていて、戦後という言葉を消失させたら、日本のアイデンティティが空洞になる予感がするからでは無いだろうか?

もっとも、戦争へと突き進んだ精神というのは、たまたま戦争という側面に現れてしまったということであって、日本的な独自の精神は、高杉晋作吉田松陰などが叫んだ大和魂という事柄にあるのではないだろうか。

 

大和魂

こうした言葉を書くと、いわゆる右翼や皇国主義と結びつけて短絡する向きもあると思うが、政治的な結びつき以前に、人が選択する一つの生き方として考えられるべきだと思う。

 

今日は、いわゆる終戦記念日

終戦という言葉に、様々な思いが見て取れる。

終戦は、敗戦も含めた言葉であると解すべきである。そしてまた、長かった太平洋戦争・15年戦争・世界大戦が終わったという意味でもある。

さらに、西洋という脅威の下に進められた日本近代化の成れの果てという意味でもある。

博多、下関、岡山へ 日帰りの旅もいいものだ

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朝起きて、よし九州に行こうと思って、行ってきた。

日帰りである。

関西から東京に行くのと同じ感覚で西に行けば、3時間で博多に到着する。

 

電車の中では結構、寝ていた。だから、博多に着いて新幹線から出ると、京都とあまり変わらないホームの風景で、本当に博多に来たのだろうか?と疑った。

博多に来たのは初めてである。だから全くどこに何があるのかも分からない。

博多は大都会である。駅をうろうろしているだけで、やたらと人が多く、建物が密集していて暑苦しい。

 

ひとまず、福岡の地下鉄がどんなものか乗って、大濠公園に行ってみた。

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なぜ、大濠公園に行ったか?

博多のことは何も分からなかったのだが、地下鉄の路線図を見ていると、大濠公園駅というのが目に止まって、確か、長渕剛がまだ駆け出しの頃に歌っていた歌に、大濠公園という歌詞があったのを思い出して、どんなところなんだろうと思って行ったまでである。

 

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都内や地方都市にもよくある大型サイズの公園である。

魚釣り禁止区域というのがあった。どこの公園でも魚釣り禁止と謳っているところは多いけれど、写真のように、きちんとデザイン札を作ってある公園は初めて見た。

 

大きな池があるところは、都内の洗足池公園、井の頭公園、石神井公園などに似ているし、規模も同じくらい?かなと思った。

こういう公園が近くにあると、結構便利というか落ち着ける。

私もいくつかの県で大きな公園の近くに住んでいたことがあるが、ゴロンと横になって本が読めるし、自然の中にいると落ち着く。

東京が大都会と言いながらも住みやすいのは、こうした大きな公園をはじめとして、自然が、人工的なものであれ、かなりの部分を占めていることは大きいと思う。

 

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あまり考えずにやって来たので、この後どうしようか迷ったのだが、日帰りしたかったので、九州の奥には進まず、本州に戻り、下関に行ってみた。

 

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子供の頃、まだ10代の小学生の頃、家族で何度か九州に行ったことがあった。

鹿児島、宮崎、長崎、熊本に行った。

だけど、それは遠い昔の家族旅行で、何となく覚えているという印象でしかない。

 

今回、九州の玄関口である博多や小倉に触れたことで、この先に、大袈裟に言えば、まだ見ぬ未知の大陸が横たわっている感を抱いた。

JR九州では、13000円で、3日間九州内乗り放題というお得チケットがあるらしく、いつかまた切っ掛けがあったら、その切符を使おうと思う。

九州は私にとっては、異国、炭鉱の町、焼き物の町というイメージがある。

アジアに近いからというのもあるのだろう。頑強な男たちが住まう熊襲の国に、隼人の国に、そのうち行きたいと思う。

 

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私の近頃の旅行は、食べ物や観光というよりは、写真を撮りに行くのが目的になっているから、写真さえ撮れれば、それで十分である。

下関では、駅から少し歩いたところに、30階くらいのタワーが聳えていて、これに登って、眼下の下関の町を撮影した。

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目の前に見える島は彦島である。

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関門海峡関門橋

壇ノ浦の戦い、巌流島の決闘、下関戦争と言った歴史上の事件が、この地で繰り広げられた。

下関は幕末の志士、高杉晋作と縁が深く、彼の墓も下関にある。

幕末の志士たち、坂本龍馬高杉晋作などは、何か颯爽と現れて日本を変えて若くして死んでいった、というイメージがあるけれど、そういうイメージだけが先行して、幕末において、彼らが実質的にどのような貢献をしたのかは、多くの人にとって突き止められていないと思う。

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下関駅前のホールか美術館の入り口広場

 

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下関から一気に岡山市

岡山駅前の噴水

 

岡山はもうこれで、5回以上は来ている。だから町の勝手も多少分かっている。

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歩き疲れていたので、岡山城へは行かず、駅前を散策して写真を撮るに留めた。

 

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奉還町商店街

 

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商店街近くの町並み

 

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駅から続く歩道橋の階下

 

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レンタ自転車の群れ

 

お盆休みということで、新幹線も切符を取るのは早い者勝ち。

人の移動が集中している。

 

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駅前のホテル

 

また、少しずつ写真を載せていきます。