ojos de perro azul:青い犬の目

青が好き。時々刻々と興味・関心が移ろいで行きますが、あまり守備範囲は広くありません、

性なんて気にせず生きたい

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朝日新聞春香クリスティーンの発言が掲載されていて、彼女は「女性は私が持っている個性の一つに過ぎない」ということを言っている。

日本では、女性ということを女性自身も重く捉えすぎていて、女子力という言葉が流行るほど、と彼女は言う。

 

日本という国では、女性ということがレッテル・ラベリングとして作用していて、それがために生きにくかったり、嫌な思いをしたりしている。

日本は、経済的には先進国であるけれど、人権・性・自由・平等などといった近現代的なコンセプトに関しては、超後進国である。

中でも、性・性別については、遅れすぎている。

 

1980年代に、フランスのドゥルーズ=ガタリの「n個の性」という概念が登場したが、性は男性・女性だけではない。どんなものにも性があり、また私たちも男性・女性という性に留まっているのではなく、n個の性を横断しつつ生きている。私たちは身体という物質を伴った存在だけれど、その中を流れる精神・心・感情などと呼ばれる実体のない流動する流れは、時事刻々とその中身を変化させながら動いている。

人間を、精神と身体が融合し、せめぎ合っている場として捉えること。radwimpsの「なんでもないや」のように。

 

明日は健康診断があり、血液検査がある。私のあまり好きではない検査である。早く終わって欲しい。

桜の咲く季節を前にして

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 今朝は寒く、雪がちらついていた。

けれど、どことなく終局の寒さのようにも思えた。もうすぐ3月。暖かくなり始める。

雪景色の写真を撮りたかった。けれど、雪が降ると外には出たくない。

冬ももうすぐ終わる。夏の暑さが終わるのと似て、冬の寒さも終わるとホッとする。

 

春はあまり好きではない。秋は好きだ。

桜は前は怖かったけれど、今は不思議な花だと思える。いきなりあんなに満開に咲き誇る。そして、短い間に散ってしまう。儚い。

浮かれた感覚があまり好きではないのかもしれない。

春になると、気が違った人が時々、出没する。昔、どこかから帰ってきた息子と間違われて、気が触れた女性が急に私の乗っている車の前に立ち止まって、焦った。

 

小学生や中学生の頃は、春が待ち遠しいようにも思えた。新しいクラスに変わって、どの友達と一緒になるのか楽しみなところもあった。

子供って、やっぱり大人とは見ている世界が違う。早熟な子供というのもいるけれど、果たしてそれがいいのかどうか。子供は子供の時しか見れない夢を見ている方が幸せかもしれない。

 

冬と春の間の空白地帯。

今年の春は、カメラという武器があるから桜をたくさん写したいなと思う。

芸術・教育への意志

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乃木坂46橋本奈々未が卒業した。

彼女は生活苦の中で乃木坂を受験し、厳しいアイドルの世界に身を投じた。そして、もう芸能界からは引退し、一般人になるという。

 

乃木坂だけでなく、アイドル・俳優など芸能界で生きることは生半可なことではないし、そもそも目立った何かを持っていないと、芸能界に入ることはできないし、何かを持っていても偶然や運に大きく左右される。

 

芸能界は学者の世界と似ているところがある。学者も抜きん出た才能を持っていれば別だが、そこそこであれば、学者としての将来は、通っていた大学や師匠に大きく左右される。芸能界も所属のプロダクションに結構左右される。

 

私も、偶然の経緯から、小劇場系の役者さんをそれなりに見てきたが、テレビや映画で使える力を持った役者は、小劇場には結構な割合でいる。けれど、彼らがメジャーに進出する機会はまずない。この人はすごい演技力があると思っても、その劇団内から出て行くことはない。

有名なキャラメルボックスも、上川隆也がメジャーになったが、それも偶然で、キャラメルの他の凄腕の役者はそのまま、キャラメルボックスで生きている。

 

メジャーになることを望んでいる人ばかりではないだろうが、小劇場の経済的事情を考慮すれば、何らかの改革が必要だと思う。静岡県などのように、自治体がバックアップするとか。

 

日本は、芸術畑に対するお金の配分が上手くないのではと思う。それは、芸術に対する通暁のなさを物語っていて、通り一遍の芸術・文化しか見ていない。

経済的な配分が下手なところは、教育政策にも現れていて、これからの人材を育てようという国の将来に関わる一大事に、お金を投入することを控えてしまっている。

現代都市で生きる私たち

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 しばらく本屋にもゆっくり行っていなかった。

そんなに読みたいものも頻繁に発売されるとは思っていなかった。

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

 

 と思ったら、マクタガートの時間論が発売されていた。

まさか、今頃こんな本が出されるとは思っていなかった。訳者の永井均の文章が全体のほとんどを占める本で、デリダフッサール幾何学の起源』と同じような体裁になっている。

日本の起源 atプラス叢書05

日本の起源 atプラス叢書05

 

  この本は、前から気になっていた。というのは、与那覇潤『中国化する日本』が面白すぎて、彼が他の著作で何を語っているのか気になっていた。

学校で習った日本史は出鱈目とは言わないが、現代歴史学の最前線から見た日本史がどういったものかを知るのは、少なくとも私には重要である。

ブラタモリ (1) 長崎 金沢 鎌倉

ブラタモリ (1) 長崎 金沢 鎌倉

 

これは、時々ちらっと見ていたのだが、書籍化されて何となく気になっていた。数冊出ていたけれど、第1巻から読まないと気が済まない。

これを読んで旅に行くと面白いと思う。 

へうげもの(1) (モーニングコミックス)

へうげもの(1) (モーニングコミックス)

 

  こちらは飛び飛びで読んでいたのだが、kindle無料本で出ていたので最初から読んでいる。本能寺の変に至る経緯が、利休・秀吉ルートの謀りごとだったという説を採用している。本能寺の変の前後の出来事が詳しく描かれているので、明智光秀の三日天下というものが、どういう推移を辿ったかがよく分かる。

光秀は、素早く高松より帰った秀吉にさっさと討たれて、逃走中、農民に殺されたので、天下人如き数日が空白状態のままというのが、一般的なイメージであった。

 

 コーエン兄弟作品。

ノーカントリー』は見たことがあるが、彼らの作品をどこか敬遠していた。

見たいなと、ふと思って見たら、不思議な色付けで悪くないと思った。

些細なエピソードが多々出てくるが、それが映画らしいと思えた。映画って、普段は見てないような部分を、拡大して示してくれるところがあると思う。

 

 

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写真を整理していたら、年末に撮った里親探しのワンちゃんの写真が出てきた。

彼に里親は見つかったのだろうか?

私は里親のボランティアをしている人の気持ちは分かる。私もなんとかしたいと思う。

同じように、宗教活動をしている人たちも、世の人を救いたいがためにやっているのかなと思う。そういう人がいても不思議ではないと思う。

 

今週は村上春樹の新作が発売される。

彼の本は読みやすいけれど、内容は分かりにくい。彼は『海辺のカフカ』が出た頃に、自分は「現代都市で生活する人々の生態」を描いていると語っていた。

この言葉は村上作品を理解する上で、一つのヒントになると思う。

Twilight Avenue

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ここ数日、変則的な生活になってしまった。

 

週末、仕事仲間が退社してしまうので、お別れ会を開いて5人で朝まで話し込んでいた。それに、たまたま私のバースデイも近くで、そのお祝いもしてもらった。

 

始めるのが遅かったので、飲んで話していたら、いつのまにか終電5分前になってしまっていた。そのあと、店を変えて、5時過ぎまで話していた。

 

学生の頃はよく徹夜で飲んだり、語り明かしたり、高校生の頃は寝るのがもったいなくて、3日ほど徹夜したりと、夜と昼はあんまり境目がなかった。

でももう徹夜というのは最近はなかったから、こういうのもたまにはいいなと思った。

 

今日は、久しぶりに写真を撮る時間ができて、夕方、東山駅から白川沿いに京阪祇園四条まで歩き、さらに京阪七条から京都駅まで歩いて、目に止まった風景を写真に収めた。

写真は、記録・芸術だという言い方もできるけれど、目の前に偶然現れた一瞬の閃きを切り取る魔法、もう二度と出会えない瞬間を写し取る鏡といった表現のように、カメラを手にした人の感情と密接に連動したものとしてある、という言い方のほうが今の自分にはしっくりくる。

写真家・荒木経惟のことを、自分が一眼レフで写真を撮るまでは、それほど関心もなく、ヌード写真好きなカメラマンぐらいに思っていた。

けれど、最近たまたま図書館で彼の写真論に収められている写真と言葉を見て、彼が写真を通じて、真摯に自分の感情を伝えていることが分かった。素直で純真な人なんだなと思った。

完全版 写真ノ話

完全版 写真ノ話

 

 

本日撮影した写真を載せておきます。

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使いやすい部屋で過ごしたい

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部屋にモノが増えてきて、机の上で作業をすることも増えてきたので、レイアウト変更しようと思う。

 

私は自分が使いやすいと思う部屋は、2LDKの50平米以上あるマンションで、寝室は6畳で、LDKのスペースが40平米以上あれば、本棚・長い机・ソファー・ダイニングテーブルが広々と置けて、寝室ともう一部屋で移動が少なく日常生活が送れてしまう。

言って見れば、事務所的な使い方が自分にはあっている。

 

今までに、転勤やら何やらで、かなり何度もあちこちに引っ越したが、上に書いたような部屋に住んだことも何度かあった。やっぱり使いやすかった。一日中、会社生活を送っているときは、住む部屋はあんまり活躍はしなかったが、自宅で仕事をすることが増えたりすると、事務所的なレイアウトは効果抜群で、ストレスが少なく楽しく過ごせた。

 

現在はそんなに広々とした空間で生活しているわけではないので、限られたスペースを使いやすいように、その時々に応じて仕様を変えている。

 

人の部屋の使い方を観察するのは参考になって楽しいけれど、実際、人の家に行くのも限られているから、本やネットで、人の部屋のレイアウトを覗き見して参考にしている。

 

私の重視する点は、やっぱり使いやすさ・機能性で、色合いやオシャレ度はそれほど気にはならない。と言っても、黒はあまり好きではなくて、白系統でまとめる傾向があると思う。他には、パソコンは高性能で、音楽用のスピーカーがしっかりしていれば文句はない。

 

今週末までに考えて、レイアウト変更しようと思う。

 

銭湯に、垢抜けしない時代の日本を見る

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風呂がまだ修理できておらず、仕方ないので近所にある銭湯に行った。

銭湯、スーパー銭湯、温泉など外湯に入るのは久しぶりなので、いつもと違うなあ、みたいな感じだった。

私はそもそも、お風呂が嫌いではないのだが、お風呂に長く入っているのが苦手で、温泉に行っても、わずか20分くらいで上がってしまう。自宅のお風呂に入っているのと同じである。

 

本日、久しぶりに銭湯に行って、何というのか、大袈裟に言えば世間というか世の中というか、そういうものに触れた感じがしました。

毎日、仕事に行って、電車に乗って世間と接触してる訳だけれど、銭湯に行くと、また普段とは異なった人たちに出会える。普段、接触できない人と接触できる。

今日行った銭湯には、お年寄り・刺青の人・番台にいるやけに高齢のおばあさんなどがいた。

それほどいつも歩いていて出会う顔ぶれと違わないとも言えるけど、刺青の人に出会うことはあまりないし、風呂場という裸の付き合いの場だと、普段見ている人でも身近に感じられてしまう。

 

言いたいことがうまく表現できないのだが、私が子供の頃に行った銭湯には、刺青の人だけでなく、見るからに一癖も二癖もある人が来ていて、大声で演歌みたいな歌を歌う人もいて、銭湯という場自体が、社交場というか、色々なものが混濁した空気を醸し出していた。

その空気は、今日行った銭湯にもやっぱりあって、会社などの、取り澄ました人たちがいるだけの平板な場とは違った空気が支配していた。

 

芥川龍之介が『戯作三昧』の中で銭湯に通う滝沢馬琴のことを書いていたけれど、銭湯という場は、江戸時代や、そこまで行かずとも昭和・大正・明治の、日本がまだ泥にまみれていた時代を想像させるのに打ってつけの場、そうしたものを想像できる最後の場なのかなと思う。

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

 

 『テルマエ・ロマエ』ではないが、銭湯という文化は日本らしさの象徴と言えるのではないだろうか。